フレッド・ジンネマン「真昼の決闘」:保安官の孤独な闘い

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フレッド・ジンネマンの1952年の映画「真昼の決闘(High Noon)」は、ジンネマンにとっては唯一の西部劇だ。いまでは、ジョン・フォードの「捜索者」及びジョージ・スティーヴンスの「シェーン」とならんで西部劇の最高傑作といわれている。通常の西部劇とは異なって、保安官の孤独な戦いを描いたもので、きわめて社会批判的な視線を感じさせるというのが通説である。映画評論家の中には、この映画が公開されていた時代のアメリカのマッカーシー旋風に関連付けて語るものもいるが、ジンネマン本人は、政治的な動機は一切ないとして否定している。

ある町の保安官の生きざまがテーマである。その保安官が過去に逮捕して死刑判決を受けた悪党が、どういうわけか保釈されて町に戻ってくる。自分を逮捕した連中に仕返しをするためだ。ゲーリー・クーパー演じる保安官は、結婚式をあげたばかりで、他の地域に移る予定だったが、悪党が復讐に戻ってくると聞いて、町にとどまり、悪党とその一味併せて四人と対決する決意をする。ところが町の住民は誰一人保安官に協力しようとしない。まきぞえになるのを恐れているのだ。結局保安官は、一人で四人の悪党を相手にするはめになる。結婚したばかりの妻も、夫を見捨てようとするのだ。

そんなわけで、単身町の目抜き通りに立ち、四人の悪党と直面した保安官は、次々と悪童どもを射殺し、ついには勝利する。思い直して町にもどってきた妻も、夫に協力し、勝利に貢献する。勝利した保安官は、自分を見捨てた町の連中に愛想をつかし、保安官の星型のバッジを地面にたたきつけて、妻と共に去る、といったような内容だ。

これだけのストーリーだと、社会批判の視点を感じるのはむつかしいかもしれないが、当時のマッカーシズムを考慮すると、健全な社会を維持するためには、市民の自覚が必要なのに、その市民が日和見主義に徹すれば、邪悪な人間をのさばらせるだけだという解釈が成り立たないわけでもない。

この映画の上映時間は85分だが、その時間がそのまま映画の中で流れる時間に重なる形になっている。映画の中で流れる時間が、時計の針によってリアルに表現される。だから観客は、実際の場面に立ち会っているような現実感を抱くのである。そういう意味では、実験的な性格が強い作品だ。

なお、全編を通じて流れる主題歌は、日本を含めて大ヒットした。今でもよく歌われ、スタンダード・ナンバーになっている。





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