アグラーヤ・イヴァーノヴナと女の意地:ドストエフスイー「白痴」から

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アグラーヤ・イヴァーノヴナは、ムイシュキン公爵とともにこの小説の主人公だと作者はわざわざ断っている。だが、作者がそういう割には、アグラーヤの人物像は鮮明ではない。もうひとりの重要な女性ナスターシャ・フィリッポヴナと比べると、その性格は曖昧だし、行動にも筋がとおっているようにも思えない。ナスターシャ・フィリッポヴナを駆り立てていたのは、生きることへの絶望だったと前稿で指摘しておいたが、アグラーヤ・イヴァーノヴナを駆り立てていたものはなんだったのか。小生の印象では、女の意地だったように思う。彼女は非常に自尊心の強い女性で、その自尊心が自分に対するムイシュキンの曖昧な態度や、また、ムイシュキンがほかの女を愛することをゆるさなかったのだ。その自尊心は非常に情動的なものなので、小生はそれを女の意地と呼んだわけである。

だいいち、アグラーヤがなぜムイシュキン公爵の愛を受け入れ、しかも事実上婚約までしたのか、その動機がはっきりしない。彼女は、ムイシュキンを初めて見た時に、かれを白痴として認識したのだし、その後も、かれについて深い関心を抱いていたとは思われない。だから彼女がムイシュキンのプロポーズを受け入れたシーンを、小生は非常に意外に受けとめたものだ。そのシーンでは、ムイシュキンがひたすらアグラーヤへの愛を告白し、その愛を受け入れてほしいと懇願するのだが、その懇願にほだされるように、彼女はムイシュキン公爵の愛を受け入れる。かといって、そこに迷いがないわけでもない。無条件に喜ぶわけにはいかないのだ。その証拠に、母親や姉たちが、彼女とムイシュキン公爵との事実上の婚約を祝福せざるをえなくなったときにも、わたしはまだかれと正式に婚約したわけではないといって、はぐらかしてしまったほどである。あんなお馬鹿さんとは、まだ結婚すると決めたわけではないと彼女は言うのである。

白痴であるムイシュキンとアグラーヤが結ばれることには、母親や姉たちのほうが否定的だった。確かにムイシュキンは人柄もいいし、財産もほどほどにある。白痴だということを除けば婿としては申し分がない。だが、やはり、白痴というのは致命的な弱点である。なにしろムイシュキンは世間に知られた白痴であって、だれでも一目見ただけで、かれが白痴だとわかるほどなのである。これは一人前の人間としては、かなりマイナスの要素である。隣人として付き合うのならともかく、夫や婿にするのはためらわれる。それが彼女たちの本音だったが、ほかならぬアグラーヤがムイシュキンとの結婚を望むのであれば、彼女の幸福のためにも、それに反対し続けるいわれはないのだ。

もっとも本人のアグラーヤにしてからが、ムイシュキンを無条件に受けいれたわけではなく、大きな条件付きであった。その条件とは、ナスターシャ・フィリッポヴナとムイシュキンとの関係をきれいに清算させることだった。ナスターシャは、かつてムイシュキンと事実上の婚姻関係にあったのだし、いまでも完全に切れているかどうかわからない。ムイシュキンはナスターシャのことを、あの女は気ちがいだといって、まともに相手にしないふりをするのだが、その一方で、あれほどかわいそうな女はないといって深く同情したりする。そこがアグラーヤには、あやうく感じられるのだ。その上ナスターシャは、自分に奇妙な手紙をよこした。その手紙の中でナスターシャは、アグラーヤに対する同性愛的な感情をほのめかしていたのである。

そんなわけだから、アグラーヤはナスターシャと直接会って、自分の疑問を晴らさないではおられなかった。その会見には是非ムイシュキンを同席させ、この奇妙な三角関係に終止符を打たねばならなかった。その会見には、自由思想家の結核患者イポリートがひと肌脱いでくれた。かくして実現した三人の会見(それにロゴージンも加わっていた)は、思いがけない結果になる。ナスターシャに対して未練を捨てきれない様子のムイシュキンに腹をたてたアグラーヤが、ムイシュキンとの絶交を決断し、一方ナスターシャのほうは、ロゴージンとの婚約を解消して、ムイシュキン公爵ともう一度婚約することになるのである。

もっとも、この奇妙な展開は、事前に意図されていたものではなく、その場の勢いに乗った形で偶然出来したというふうに感じさせる。ナスターシャがムイシュキンとよりを戻したのは、新しい出発を見込んでのことではなく、これまでの腐れ縁に最終的な決着をつけるためだった。彼女はその後、ムイシュキン公爵との婚礼の場からロゴージンを伴って蓄電し、ロゴージンの手にかかって息絶えるのである。

一方、アグラーヤのほうは、その後あるポーランド人と結婚する。その結婚は、アグラーヤ自身の選んだものだったが、じつは相手は詐欺師まがいの男だったということが判明する。その男はポーランドの貴族を自称し、莫大な財産を所有しているといふれこみだったが、実は普通の庶民の出であり、財産もほとんどないということがわかったのである。もっともそれについてアグラーヤが不服を抱いたという記述はない。おそらく彼女は自分自身が選択した結婚を後悔する理由を持たなかったに違いない。それは彼女の意地から出たことであり、その結婚を後悔することは、彼女の意地に反することだったと思われるからだ。






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