正法眼蔵随聞記評釈

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「正法眼蔵随聞記」は、懐奘による道元の言行録である。懐奘は道元が宋から帰って深草に庵を結んでいた時に道元の一番弟子となり、以後道元が死ぬまで師事した。その間に道元の説教をもとに「正法眼蔵」を編集した。懐奘はまた、自分自身が道元から聞いた話をもとに、備忘録のようなものを残した。それをまとめたものが「正法眼蔵随聞記」である。「正法眼蔵」本文が、道元の直接語った言葉(あるいは書いた文章)を再現しているのに対して、こちらは道元から聞いた話を採録している。その中には、道元の思想とかかれの行動、また栄西はじめ道元が尊敬する人々の言動の記録も含まれている。

「正法眼蔵随聞記」は、曹洞宗の法門の間で写本として伝えられてきたようだが、これを一般向けに紹介したのは和辻哲郎である。和辻は、面山和尚が宝暦八年(1758)に板行した「重刻正法眼蔵随聞記」をもとに、一般読者向けに校訂したものを昭和四年(1929)に岩波文庫から刊行した。現行の岩波文庫版は、それの改訂版であり、昭和十三年(1938)に中村元によるフリガナ付きで刊行されたものである。いまもなおその版が読み継がれている。

「正法眼蔵」本文は、難解なことで知られる。仏教者や仏教の研究者でさえ、読むのになかなか骨が折れるという。理由はいろいろあるが、道元特有の言葉使いが世間の言葉使いとかけ離れたところが多く、それが理解を阻んでいるのだと思う。「正法眼蔵」を完読することは、日本人なら一度はやってみたいところだと思うが、多くの人々はその難解さに辟易して志なかばで頓挫してしまうのではないか。

ところがこの「正法眼蔵随聞記」は、比較的わかりやすい言葉で書かれており、また、内容も卑近なことが多いので、初心者でも理解できる。そのわかりやすさが、「正法眼蔵」の入門書としての位置づけにつながったのであろう。もっとも、この書物の中で書かれていることは、道元の修行への心構えとか、また人間一般に通じる生き方の要諦などについてであり、道元固有の思想にまでは立ち入っていない恨みがある。だから読者は、この書物を通じて道元の人柄に接することで満足せねばなるまい。道元固有の思想については、「正法眼蔵」本文にあたる必要がある。

全体は六巻からなっている。第一は,心身脱落について語る。心身脱落とは、懐奘の理解では、心も体も捨てて修行に励むというような意味である。また、悟りが成就した境地をもさしているようである。心身脱落は、修行の心得であるとともに、修行の結果得られるさとりの境地とも捉えられている。

第二は、心身放下について語る。心身放下とは、心身脱落同様心も体も捨てて修行に励むという意味であるが、心身脱落とは違ってさとりの意味合いはない。

第三も、心身放下について語る。ここでは、心身放下の意味合いが非常に卑近な例をあげながらより具体的に語られる。たとえば、富貴を戒め貧窮を苦としないことなどである。

第四以下は、修行の心得が具体的な例を挙げながら語られる。その要諦は、我執をすてて善知識(指導者)の教えに従えということである。道元には、理屈よりも実践を重んじるところがあり、その実践は先達の教えをなぞることだとする信念がある。その信念が、具体的な例を挙げながら紹介されるのである。

以上、この著作はもっぱら修行の実践の心得について説いたもので、道元の思想の内実に踏み込んだものではない。もっとも、道元自身に、思想よりも実践を重視する姿勢が見られる。道元も、仏教者として四諦の思想を受け入れていたが、四諦のうち、仏教思想の要諦を説いた苦集よりも、修行の実践上の心得を説いた滅道のほうを重んじる傾向が強かった。その傾向が、この「随聞記」では、拡大されたか形で現れているといえるのではないか。

ともあれこの書物を通じて読者は、道元の人物像の一端に触れることができよう。なお、この評釈は、随聞記本文に逐一即しながら、その意とするところをなるべくわかりやすく伝えるように心がけた。






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