差異について:ドゥルーズの初期の差異論

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ジル・ドゥルーズは、差異についての考察から自分の哲学を始めた。かれの初期の代表作「差異と反復」はその最初の本格的な成果だ。かれが「差異と反復」を刊行したのは1968年のことで、前年のデリダの「エクリチュールと差異」と並んで、「差異の哲学」の宣言のように受け取られたものだ.。かれらが差異をことさらに強調したのは、西洋の伝統的な哲学思想への挑戦を、この言葉に託したからだ。西洋の伝統的な哲学思想の根本的な内容は、同一性によって規定されている。同一性というのは、プラトンのイデアがそうであるように、永遠にかわらぬ(不変の)ものを基礎づける概念である。その概念から形而上学が構成された。その形而上学に代表される西洋の伝統思想を解体するためには、同一性との対立関係にあると思念される「差異」の概念を、とりあえず押し出そうというのが、二人の考えだったといえる。デリダとドゥルーズによって代表されるフランスの現代思想は、差異の哲学といわれることがあるが、それは差異こそが伝統的な西洋思想を解体するうえで、最重要な役割を果たすと考えられるからである。
デリダは差異の概念を、ソシュールの言語学を手掛かりにして導出した。それに対してドゥルーズのほうは、ベルグソンの研究から差異の概念を導出した。ベルグソンといえば、なんといっても意識の直接与件から出発した思想家である。意識の直接与件とは、要するに時間の中で現前する直感のことである。その直感は、知性の働きによる分節化以前の生の体験内容であり、したがって本来、差異とはまったく正反対のもののはずである(差異は分節を前提とするから)。ところがドゥルーズは、ベルグソン的な直感に差異そのものを読み取った。だがそれは、ベルグソンの意図に沿った読み方ではなくて、誤読あるいは曲解というべきではないか、という批判は十分に成り立ちうる。じっさい小生などもそう思うことがある。

その誤読ないし曲解をドゥルーズはどのようにやってのけたのか。その秘密を解明する手掛かりが、「差異について」と題する小文にある。この小文は、1956年、ドゥルーズが31歳の時に書いたもので、かれの哲学論文としてはもっとも早い時期のものである。かれはこの論文の中でベルグソンの思想を取り上げ、それを手掛かりにしながら彼独自の差異の思想を基礎づけようとした。かれはベルグソン研究とならんで、スピノザやニーチェの研究もすすめ、それらの成果を踏まえながら、西洋の伝統哲学の解体を目指すようになる。その際にもっとも強力な方法論的な武器となるのが差異の概念なのである。



ともあれ、この小論(「差異について」)でドゥルーズが、ベルグソンからどのようにして差異の概念を取り出したか、についてみていこうと思う。

ドゥルーズはベルグソンの直感がすでに差異を含んでいると前提する。その理由をかれは詳しく説明しない。ただ、直感の本質は持続であり、その持続が自己のうちに差異を含んでいるから、その持続からなる直感もまた差異を含んでいるというのみである。こうした直感のとらえ方は、西洋哲学の伝統からはみ出している。直感についての西洋哲学の伝統的な捉え方は、一応カントによって代表されるが、カントは直感を知性と区別し、直感を材料、知性を料理の働きとみなすような態度をとった。なまの材料に料理の手を加えるように、生の直感に知性の働きを加えることで、人間の認識が成立するというふうに考えたわけだ。直感と知性の働き(それが分節であり総合である)をあくまでも別物として捉え、両者の関係を外的なものと見なしたわけである。

そうした見方が西洋哲学の基本的な前提(それを通念という)となっていたわけだが。ドゥルーズはその前提をひっくり返す。直感はすでにそれ自身に分節の働きを含んでいる。分節の働きは、通念上は知性の働きをさすわけであるから、ドゥルーズによって解釈されたベルグソンの直感論は、カントとは異なって、直感と知性とをはっきりと区別していないわけである。

分節は差異をもたらす働きであるが、それには二種類あるとドゥルーズは言う。一つは、ある事物とほかの事物との差異である。これは通念上の差異の考え方とほぼ同じといってよい。事物がある意味を帯びるのは、あくまでも他との差異においてである。意味とは差異のことにほかならない。もう一つは、ある事象の自分自身との差異である。これは持続において現れる。直感は、カントが言うように無時間的なものではなく、持続(時間)のなかで現前する。その持続とはドゥルーズによれば、「自己に対して差異を生ずるものである・・・物質とはこれと反対に、自己に対して差異を生ぜず、繰り返されるものである」(平井啓一訳)。

ドゥルーズが重視するのは、後者の差異である。その差異をドゥルーズは「本性の差異」と呼んでいる。本性の差異は、質的な差異であって、質的な差異は、事象の唯一不可分な主体性を担っている。それ(本性の差異)は、程度の差異、強さの差異、種差とは別ものである。種差は、同一の類の中での、外的な差異に根拠を持つが、そうした外的な差異は本当の差異ではない。本当の差異は、ある事象をそのものたらしめている差異であり、そうした差異は、他のものとの差異を考慮することなく、それ自身としての本性を開示するのである。

本性の差異をドゥルーズは、外的な(種差のような)差異と区別して内的差異と呼んでいる。「内的差異は、矛盾、他者性、否定から自らを区別せねばならないだろう。この点においてこそ、差異についてのベルグソン的な方法と理論とは、プラトンの他者性の弁証法であろうと、ヘーゲルの矛盾の弁証法であろうと、それらはいずれも否定性の現存と力を含むものであるがゆえに、人が弁証法と呼ぶ差異についてのもう一つの方法、もう一つの理論に、正面から対立するであろう」。

ここでドゥルーズが弁証法と呼んでいるのは、西洋形而上学という意味においてである。その西洋形而上学の理論を正面から対立する理論を、ドゥルーズなりに解釈された差異の概念が担うというわけである。その差異の概念の内実を、ドゥルーズはとりあえずベルグソンを手がかりにして導きだしたのであったが、いったん彼なりの差異の概念を導き出した暁には、その概念は自律性を主張しはじめるであろう。自立した概念としての差異には、もはやベルグソンのお墨付きはいらなくなるであろう。






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