ドストエフスキーの小説「罪と罰」を読む

| コメント(0)
「罪と罰」は、ドストエフスキーの五大長編小説の最初の作品である。この作品を契機に、ドストエフスキーの小説世界は飛躍的に拡大し、かつ深化した。それを単純化して言うと、登場人物の数が増え、その分物語の展開が複雑になったこと、また、登場人物ごとの語り手の描写が綿密になったことだ。これ以前のドストエフスキーは、原則として一人の主人公を中心にして、かつその主人公の視点から語るというやり方をとっていた。極端な場合には、主人公の独白という形で語られもした。そういう叙述のやり方は、主観的な描写といえるだろう。語り手と主人公とが一体となっているからである。ところがこの「罪と罰」では、主人公のほかに多くの人物が出てきて、語り手はそれらの人物の視点に立っても語るようになる。つまり、語り手は、小説の世界にとっては第三者の立場に立っているのであり、その立場から登場人物たちの考えとか行動をなるべく客観的に描写しようとしている。つまり、客観的な描写につとめているわけである。もっとも、この小説では、主人公であるラスコーリニコフの存在感が圧倒的であり、かれの視点からの描写が大半を占めているので、まだ完全な意味での客観描写とはいえないかもしれない。そうした客観的な語り方への志向は、「白痴」以降次第に高まり、「カラマーゾフの兄弟」において頂点に達するのである。

「罪と罰」というタイトルが示しているように、小説のテーマは、主人公が犯した罪と、それに対する罰である。その犯罪というのは、金貸しの老婆を殺して金を奪ったというものだが、その罪を犯した主人公のラスコーリニコフは、自分が悪いことをしたという意識を最後まで持つことがない。かれは結局自首することで社会に対して自分の罪を認める仕草をするのであるが、それは自分の犯した罪を心から反省し、その罪にふさわしい罰を受けたいと考えたからではない。かれは、自分の殺した相手虱のような存在であり、社会にとって無用なばかりか、有害でさえあるのだから、殺されて当然であり、自分はその当然のことをしたにすぎないと思い続けている。その思いは、小説が終わるまでかわらない。ではなぜかれは、自首したのだろうか。そこがよくわからないところがある。ソーニャという女性の影響があったとか、あるいは宗教的な意識に目覚めたとか、いろいろこじつけることができるかもしれないが、決定的な理由は見当たらない。そこがこの小説の不気味なところである。つまり、小説としての解決はなく、それを読者にゆだねているのである。それは、小説の末尾の部分が、かなり説明調になっていることにうかがわれる。その部分では、語り手が前面に立って、ラスコーリニコフの心理状態を分析し、かれにかわってその身の行く末を、つまり真の意味での罰を受けるべきことを、ほのめかしているのであるが、そのほのめかしを読者に向かって一方的に投げかけるのではなく、一緒になって考えてほしいというような投げかけ方をするのである。

そこからうかがわれるのは、ドストエフスキーがラスコーリニコフという人物像に対して、自分を納得させるだけの明確な性格付与をできていないのではないかとうことである。ドストエフスキーは一応ラスコーリニコフを新たなタイプの自由思想にかぶれた人物として描いたうえで、それを否定するように、かれに罰を与えるという構成をとっている。ところが、ラスコーリニコフを徹底した悪党として描くことはしなかった。ラスコーリニコフにも一理があるというような描き方をしている。だから、読者はラスコーリニコフを単純な犯罪者というふうには割り切れないし、かれが罰せられたことにも安堵感を覚えることができない。じつに複雑な思いにとらわれるのである。この小説を、ロシア主義者に転向したドストエフスキーが、かつて自分も抱いていた自由思想を断罪する目的で書いた、というような批評がなされたことがあったが、そんなに簡単に割り切れるものではないだろう。

この小説の中に出てくる人物の中で、ラスコーリニコフと同じような自由思想を抱いているものは他にはいない。ラスコーリニコフだけが、とびはずれて突飛な考えを抱いていることになっている。他の人物は多かれ少なかれロシア土着の考え方になじんでいる。ロシア土着の考えとは、この世を神の摂理が働いたものと受けとるもので、人間がどうこうできるようなことではないと考えるものである。だが人によってその考え方にニュアンスの相違はある。その相違をドストエフスキーは丁寧に描写している。そこにこの小説の一つの魅力がある。この小説は、メーンプロットは比較的単純なのだが、登場人物の数が多く、それぞれがユニークな性格の持ち主なので、かれらの考えや行動を追いかけるだけで、多彩で躍動的な小説世界が展開するという構成をとっている。

ラスコーリニコフを囲む登場人物たちの多くは、社会の下層に属する庶民である。地主や弁護士といった上層のものも出てくるが、それはロシアの小説の伝統にしたがったまでのことで、ソーニャを始め下層に属する人物たちが、この小説では異彩を放っている。下層に属する人間たちにこれほど存在感を持たせたのは、ロシアの文学史上ではドストエフスキーが最初の人ではないか。そのことについては別稿で改めて取り上げたい。

それにしても、ラスコーリニコフ自身が、極度の貧困にあえぐ人間として描かれており、その境遇から脱するために罪を犯したということに、あるいは同感させるような描き方をしている。もっともラスコーリニコフは妙なエリート意識をもっていて、そのエリート意識で自分の行動を合理化する。ラスコーリニコフのエリート主義は、ニーチェのエリート主義の先駆けというべきもので、エリートのために愚民が犠牲になるのは当然だと考えている。そんなエリート主義をなぜドストエフスキーがこの小説の主人公であるラスコーリニコフに持たせたか。そんなエリート主義を感じさせるからこそ、読者はラスコーリニコフに共感できない。小説の主人公として、かれほど読者の共感を得られない人物像はほかにないのではないか。本物の悪党ではないにかかわらず、他人の共感を全く得られない人物像というのは、実に奇妙なものである。





コメントする

アーカイブ