正法眼蔵随聞記第二の評釈

| コメント(0)
正法眼蔵随聞記第二は、只管打坐と並んで道元思想の中核的な概念である心身脱落についての評釈から始まる(第二の一)。これを懐奘は「心身を捨つる」ことだと言っている。おそらく、道元自身がそう言っていたのであろう。心身脱落の概念の内実を知るうえで貴重な言及である。心身を捨てることの具体的な内容は、世情を離れ、「悪心を忘れ我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべき」ということである。単に自分の個人的な事柄を超脱するだけではなく、仏法に専念することが心身脱落の意味だというのである。

二以下には、栄西についての言及がいくつかある。道元は師匠の明全を介して栄西の孫弟子にあたるのであるが、栄西の教えを直接受けてもいたようである。随聞記には、道元が栄西から直接うかがったこととして、栄西の行動や言葉が紹介されている。まず、二で紹介されていること。これは餓死寸前の人から助けを求められたときに、手元に衣食財物がないことから、薬師如来の像をつくる材料として用意していた銅を与えたという逸話。弟子たちがそれを非難して、尊い仏像の材料を凡人にくれてやるのは勝手な行いではないかと言ったのに対して、栄西は「仏は身肉手足を割きて衆生に施こせり。現に餓死すベき衆生には設ひ仏の全体を以て与ふるとも仏意に合ふべし」と答えた。そして、「我れは此の罪に依て悪趣に堕すべくとも、只衆生の飢へを救ふべし」と言ったというのである。栄西の人柄と、それをしのぶ道元の思いが伝わってくるところである。

三は、唐の太宗や隋の文帝にかかわる故事を引きながら仏教者の心得を説く。太宗は、「寡人仁ありて人に謗ぜられば愁ひとすベからず、仁無ふして人に讃ぜられば是れを愁ふべし」と言った。俗人の太宗でさえそう言うのであるから、ましてや仏教者は「慈悲あり道心ありて愚痴人に誹謗せられんは苦しかるべからず、無道心にて人に有道と思はれん、是れを能々つゝしむべし」と道元はいうのである。また文帝の故事に関しては、「徳のあらはるると云も、財宝にゆたかに供養にほこるを云にあらず」と言って、世俗的な成功にこだわってはいけないと説く。

四は、仏教者は人情を捨てるべきだと説く。人情を捨てるというのは、世俗のことへのこだわりを捨てて、ひたすら仏教に帰依することをいう。仏教に帰依するとは、仏祖たちの行動に従うということで、そこに自分の判断を介在させてはならぬ、仏祖の行うことには無条件に従うべきであると説くのである。

五も、栄西に言及したもの。とはいっても栄西本人の言葉ではなく、栄西の伝記を現わした顕兼中納言入道の言葉である。中納言は伝記の序文のなかで、自分は文飾に通じていないので、むしろ儒者に書かせたほうがよかったと書いたのであるが、それを道元は特に批判していないので、外典の学問も修すべきとする主張に同意しているように聞こえないでもない。

六も栄西にかかわる話。仏法の興隆は壮大な寺院造営や僧侶として財物を多く持つことではない。そうではなく、「法門の一句をも思量し一と時の坐禅をも行ぜんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ」と栄西は説いたというのである。

七は、仏教を興隆するために関東に下向して布教したらどうかとの勧めに対して、栄西は、仏教を志さんとするものは自分からここへやってくるだろう、その志のないものには、こちらから働きかけても詮方ないと答えた。これは仏教の修行はあくまで自力によるべきだとする、禅者共通の考えが現れたものであろう。

八は、いわゆる外典は読むべきではない、と主張するもので、五における外典への肯定的な姿勢を否定するもの。

九は、在宋時代の思い出を語ったもの。これは、外典を読んでも仏教修行には全く役に立たないということを裏付けするものである。その信念を、宋のある僧侶が自分に教えてくれたと道元はいうのである。

十は、内心をむなしうして、外相は他に従うべしと説く。内心をむなしうするとは我執を捨てることである。外相は他にしたがうとは、世情にはかかずらわないという意味であろう。世情にはかかずらわず、ただひたすら仏の教えに従うのが、仏教者の生き方であるというのである。

十一は、世俗の学識は無用と説く。そんなものは、仏教修行にとって何の役にも立たない。そんなものを「本とより知らざらんは苦るしからざること」なのである。道元の世俗的学問への敵対思想が極まった部分であろう。

十二は、世間の噂や評判を気にすることはないと説く。「世間の人はいかに思ふとも苦るしかるべからず」というのである。もっとも、「さればとて亦人の悪しゞと思ひ云んも苦るしかるべからずとて、放逸にして悪事を行じて人を愧ざるは、是れ亦非なり」ともいう。世間拒絶の上に開き直ってもいかんというわけであろう。

十三は、人目のあるなし如何にかかわらず、正しくふるまうべきである、と説く。「世俗の礼にも、人の見ざる処あるひは暗室の中なれども、衣服等をきかゆる時も、亦坐臥する時にも放逸に隠処なんどをも蔵くさず無礼なるをば、天に慚ぢず鬼に慚ぢずとてそしる」のであるから、まして仏教者は、「内外を論ぜず、明暗を択ばず、仏刹を心に存じて人の見ず、知らざればとて悪事を行ずべからざるなり」というのである。





コメントする

アーカイブ