ジェームズ・キャメロン「ターミネーター」:人類と人工知能の闘い

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1984年のアメリカ映画「ターミネーター(The terminator)」は、人類と人工知能の機械との闘いをテーマにしたSF映画。ターミネーターという言葉は、人類の存在に始末をつける者というような意味。高い知能をもった機械すなわちサイボーグが、人類をせん滅させて地球の覇権を確立しようとしている、というような意味のことを象徴的に表した言葉だ。

人工知能が人間の知能をしのぐようになり、やがて人間に敵対するようになる可能性は、あのホーキング博士も懸念していた。人工知能はいまのところ人間のプログラムによって動いているが、ある段階で自己プログラムの能力を獲得し、それ以後は、人間の介在を許さず、自力で進化していく。その挙句、人類にとって深刻な敵になるというのが、ホーキング博士の予言だった。

この映画は、そうした予言が実現した世界を描いている。ホーキング博士の予言に基づいてこの映画が作られたのか、それともこの映画を見たホーキング博士がその予言を思いついたのか、それはわからない。いずれにしても、この映画を見ていると、人工知能が人間の知能をしのぐ時期がかならずやってくると思わせられる。

未来から二人の謎の男が現れて、ある一人の女性を巡って戦う様子を描く。一人は人工知能のサイボーグであり、もう一人は未来からタイムマシンにのってやってきた地球人である。サイボーグはサラ・コナーという女性を殺害するミッションを与えられている。一方未来からやってきた男は、なんとかサラの命を守ろうとする。というのも、サラの生んだ男子が、未来の地球において、人工知能の支配から人類を開放するために戦っているからだ。その男子を人工知能は打倒したいのだが、なかなか打倒できないでいる。ならば、かれをもともと生まれなかったことにすればよい。というわけで、彼の産みの親であるサラを、男子を産む前に殺してしまえばよい、ということになる。一方未来の人類は、それでは困る。サラにはなんとかして男の子を産んだことにしてもらいたい。

実に幼稚な発想だが、その幼稚な発想が、サイボーグと生身の人間の壮大な戦いに発展するのである。サイボーグは、機械なので、銃で撃っても死なないし、爆弾で爆破しても頭さえ残っていれば、執拗に動き続ける。じっさい未来の男は、何度もサイボーグを破壊しながら、その都度よみがえられるのだ。しかし、形がなくまるまで破壊し、ただの金属の塊にしてしまえば、さすがのサイボーグも生き返ることはできない。そのむつかしいことを、死んでしまった未来の男にかわって、サラが実現するのである。サラは巨大なプレス機にはまったサイボーグを圧縮して、ただの金属の塊にしてしまうのだ。

そのサラが生んだ男子というのが、未来の男のタネから出来たというのが、映画全体のオチである。サイボーグを演じたシュワルツェネガーがすさまじいスーパーマンぶりを発揮する。かれのムキムキとした筋肉は、実に人間離れしてみえる。その人間離れした迫力をもって、シュワルツェネガーは政治家としても成功した。






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