力への意思 ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から

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「力への意思」は、「永遠回帰」とならんで、ニーチェの思想の根幹をなす概念である。ドゥルーズもそのように捉えている。だが、そのわりに概念の内実が明確だとはいえない。「力への意思」は、力と意志とから合成された言葉だが、その意思の部分については、ニーチェはショーペンハワーの影響を引きずっているようである。ショーペンハワーの意志概念は、主著のタイトル「意志と表象としての世界」が暗示するように、表象とセットで打ち出されている。表象の根拠となるものが意思だという具合にである。そういう使い方だと、意思は非常に精神的な色彩を帯びることとなり、したがってその意思が表象としての世界の根拠だとする考えは限りなく独我論に傾く。しかし、ニーチェは狭い意味での独我論を軽蔑していた。そういう独我論をニーチェは、賎民の思想だと呼んだことだろう。賎民は、強者の存在を認めたくない。だから自己の内部に閉じこもりたがる。そういう姿勢は独我論と親和的である、というのがその理由だ。

ニーチェの「力への意思」概念は、力と一体化した意志を意味する。しかしてその力とは,自己の内部に閉じこもったものではなく、他者の存在を前提としたものである。他者との関係において、差異を設けること、その差異は自己の優位ということを意味するが、その優位な境位をもたらすのが力として思念される。つまり「ニーチェにおける力の概念は、他の力と関係を持つ力という概念である。このように見られるとき、力は意志と呼ばれる。意志(力への意思)とは力の差異的な境位である」(足立和弘」。

ショーペンハワーにおいては、意志はとかく否定的なイメージで語られることが多かった。ニーチェにおいては、つねに肯定的に語られる。そこに「意志」という概念をめぐる両者の根本的な相違がある。ところがそもそも、意志という言葉は、両者がともに使っている限りで、共通する要素をもっている。というより、ほとんど同じような意味で使っているのである。にもかかわらず、ショーペンハワーはそれについて否定的に語り、ニーチェは肯定的に語る。

第一、ショーペンハワーには、意志と力とを結びつけるアイデアはなかった。意志はあくまでも精神的な事象であり、それに対して力は、物理的な事象である。つまり、カテゴリーを異にした関係にある。その本来違う次元の二つの概念を、無理に結びつけたところに、ニーチェの「力への意思」概念の不明瞭さが起因するのではないか。

ともあれ、ドゥルーズはニーチェの「力への意思」概念を、次のように押さえている。それは、「力と力の関係を規定し、力の質を産み出す差異的な境位」であり、「力そのもののうちにみずからを表現するのでなければならない」。そのようなものとしての力への意志は、能動的な力を持たねばならない。その能動的な力とは、「一、支配し、屈服させる可塑的な力。二、自分のなし得ることの果てまで進んで行く力。三、自身の差異を肯定し、それを享楽と肯定の対象とする力」。そのような力とそれを踏まえた力への意思は、他の力に対しての差異としての自己の優越を誇るような絶対的境位を保障する。そのような絶対的な境位が、超人の登場を促すことは、自然な道理であろう。

「力への意思」は、力の感情を暗示させる。というより、自己のうちに力の感情が高まることで、人は力への意思を意志するのである。

では、その力への意志は、具体的には何を目指すのか。この問いは重要である。というのも、力への意思を他者の力との関係において規定するだけでは、その内実が具体的にどのようなものかは明らかにならないからである。ニーチェの力への意思がめざす具体的な対象のうちドゥルーズが重視するのは「創造」と「歓び」である。「彼(ニーチェ)が考えている意志の哲学は二つの原理をもち、この原理は歓ばしき伝言を、つまり意志することイコール創造すること、意志イコール歓びという伝言を、もたらす・・・」。

ニーチェにとって、「創造」は人間にとっての根本的な要請である、創造のないところでは、いかなる刺激もなく、したがって生きている歓びも感じられない。創造は、創造するものに歓びを与えるだけではない。人類全体の底上げをももたらす。人類に属する或る者の創造的な行為は、そのもの自身の歓びにとどまらず、人類全体を歓ばし、また、人類の資質の底上げをもたらす。ニーチェによれば、人類はエリートとその他大勢からなりたっており、エリートの創造的な行為が人類全体の発展向上をもたらすと考えていた。そこからニーチェの超人賛美が生じる。ニーチェの超人思想については、別稿で触れるが、その超人思想を、ドゥルーズは或る程度容認していたようである。





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