私の三冊の本:落日贅言

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今から三十年以上も前に、岩波の読書誌「図書」が「私の三冊」と題した臨時特集号を出したことがあった。各界の名士たちに、岩波文庫のなかから最も印象に残った本を三冊あげてもらい、その各々について短いコメントを書かせるというものだった。それを小生は非常に興味深く読んだ。最も多くの人たちがあげた本は、中勘助の「銀の匙」とか阿部次郎の「三太郎の日記」といったもので、時代を感じさせたものだ。いまどきそんな本をあげる人はほとんどいないだろう。

その企画にそそのかされるかたちで、小生も自分自身の「私の三冊」について考えてみたものだ。小生がその時に取り上げた「私の三冊」は、スタンダールの「赤と黒」、マルクスの「資本論」、ヘミングウェーの「武器よさらば」である。この三冊について小生は短いコメントを書いたのだったが、いま手元に見当たらないので、記憶をもとに復元してみる。各冊に割当てられた文字数は150字程度だったように思う。それを基準にして文章を再現する。

 スタンダール「赤と黒」  思春期に出会った本のなかでもっとも強烈なインパクトを受けた本だ。ジュリアン・ソレルの生き方が、よくも悪しくも一個の人間の選択を現わしており、自分自身に責任をとるとはどういうことなのかを考えさせてくれた。そういう意味では、生きることの手がかりを得させてくれた本だ。
 マルクス「資本論」  大学時代に、図書館にこもりながら二か月程度かけて読んだ。学生運動が盛んなころで、授業が成り立たず図書館にこもるしかなかった。この本を読むことで、論理的に思考する態度と社会についての規範的な見方を獲得した。
 ヘミングウェー「武器よさらば」  主人公のフレデリックが、ことあるたびにアルコールを飲んでいる姿が強烈だった。歩きながらでも、列車の中でも、愛人の分娩に際しても、アルコールを飲む。そんな姿に妙にあこがれて、小生もことあるごとにアルコールを飲む癖がついたものだ。

以上は、中年にさしかかろうという時点での選択だったが、いまでは違う選択をすると思う。老年になった今は、ハイデガーではないが、自分の人生のほぼ全体を見渡せる時点に立ち、自分の人生に決定的な影響を及ぼした本を、遺漏なく指し示すことができるように思うのだ。

そこで、今時点で小生が選んだ本を三冊あげる。対象は岩波文庫に限定せず、小生が決定的な影響を受けた本をあげることとする。それは、アルチュール・ランボーの文集、デカルトの「方法序説」、マルクスの「資本論」である。それぞれについてコメントを書くが、これについては、格別な文字数制限はしないことにする。

    アルチュール・ランボーの文集  
 小生が初めて自分の小遣いで買った本がアルチュール・ランボーの文集なのだった。これは、筑摩書房の「世界文学大系」シリーズの一冊で、「マラルメ・ヴェルレーヌ、ランボー」と題した一冊だった。この本を小生は15歳の時に、神田神保町の本屋街に赴いて買ったのだった。以来老年の今日にいたるまで、小生の部屋の本棚におさまっている。
 小生がなぜアルチュール・ランボーにひかれたか。それを改めて考えてみたい。まず、何がきっかけでランボーのことを知ったか。おそらく小林秀雄あたりを介してだと思う。小生は中学校を卒業するころには小林の文章を読んでいて、その小林がランボーに心酔していたので、小生もそれに感化されてランボーを読む気になったのだと思う。
 小林のランボーの読み方はかなり情動的なもので、ただただランボーの心の叫びに共鳴するというものだった。理屈も糞もない。惚れた女に夢中になるよように、ランボーに夢中になっているといった態のものだった。たしかにランボーには、人を夢中にさせるところがある。セックスにこだわり続けた作家ヘンリー・ミラーも、中年になってランボーと出会い、たちまち恋に落ちたほどだ。何よりも感性を重視する小林が、ランボーの感性的な面に魅力を感じるのは無理もない。
 だがランボーには、感性だけではなく、さめた論理的な面もあった。そこを見逃すと、ランボーの読み方は極めて偏頗なものになる。ここはランボー論を展開する場ではないので、詳しいことは避けるが、ランボーには社会批判的な姿勢も指摘できるのである。
 ランボーを介して、ヴェルレーヌとかボードレールを読むようになった。ボードレールについては、日本語訳で読むほかにフランス語の原文も読んでみたいと思うようになった。そこで独学でフランス語の習得につとめた。ひととおり読めるようになった時点で、神田の田村書店で「悪の華」の原文テクスト(クラシック・ガルニエ版)を入手したものだ。それ以来小生は、フランス文学に親しむようになった。さきほど「私の三冊」の一つとしてあげた「赤と黒」も、そうしたフランス文学趣味の延長上に読んだものだ。

  デカルト「方法序説}
 フランス文学趣味の一環として、サルトルを読むようになった。これも筑摩の「世界文学大系」シリーズの一冊を読んだ。その際には、短編小説や戯曲はすとんと腑に落ちたが、哲学の文章は歯が立たなかった。その本には「存在と無」の一部が収められていたのだが、これがなかなか理解できない。独特の哲学用語が文章の読解を阻むのである。西洋の哲学というものは、やさしい事柄でもわざとむつかしく書く癖があるようなのだ。だから、西洋の哲学書を読むためには、事前の訓練が必要だということになる。その訓練には、デカルトの「方法序説」を読むのがいい。この本は、哲学の訓練を受けていなくても、読んで理解できるし、しかも西洋近代哲学の礎石となった本である。そんなわけで小生はデカルトの「方法序説」を熱心に読んだのである。
 この本の意義は、哲学の門外漢でもよく知っていると思うので、細かいことは書かない。ただ、小生がこの本からどんな影響を受けたかについて、ごく簡単に触れたい。この本は「方法序説」と題しているとおり、哲学を実践する方法について述べたものだ。その方法にはいくつかの利点がある。まず、物事を論理的に考えさせること。小生は、若いころには小林秀雄の悪い影響もあって、あまり論理的な思考ができないでいた。そんな小生をこの本は徹底的に変えてくれた。哲学とはものごとを論理的に説明することである。だから哲学を学ぶことで、人は論理的な思考態度を身に着けることができる。この「方法序説」は、そうした哲学の礎となったものなので、哲学入門に相応しい本なのである。 
 次にこの本は、世界についての見方を教えてくれる。この本を読むことで、世界というものは、自分自身との関係でしか考えられないということを納得することができる。つまり、自己の主体性の意識に目覚めるのだ。若いころの小生を含め、日本人には主体性に欠けた人間が多いと言われているが、そうした主体性に欠けた日本人は、デカルトの「方法序説」を是非読んでみるがいい。

  マルクス「資本論」
 これは、上述したとおり30年以上前からずっと変わらず、小生にとって決定的な意義をもった本である。大学の図書館にこもって読んだのだったが、この本を読みながら小生は、論理的な思考能力をより一層鍛えるとともに、社会についての見方も身に着けたと思う。この本は、よく言われるように、ヘーゲルの「大論理学」を模範にしており、したがって本全体の構成とか、論旨の進め方がきわめて論理的なのである。だから、読者はあたかも論理学のテクストを読みながら、資本という生の事象を分析しているつもりになれる。言い換えれば、経済現象を論理的に分析する能力が身につくのである。いま流行の自由主義的経済学は、経済現象を現象の表面に固着しながら説明するにすぎない。現象を動かしている深層の動きを無視している。だから結果を原因と取り違えるような誤りを犯す(たとえば黒田日銀とその取り巻きたちのように)。
 小生は、経済学の専門家にはならなかったが、マルクスの「資本論」は、小生の生き方を導いてくれる指針のようなものとして、いままでずっと座右に置いてきた。

以上「私の三冊」について書いてみた。読んだ本は、もとよりこれにつきるわけではなく、また他にも大きな影響を受けた本はあるが、以上三冊は、小生の自己形成にとって決定的な役割を果たしたものとして受け止めているものである。






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