ディストピア・ジャパン

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岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)の第二特集は「ディストピア・ジャパン」である。岩波が出版した「日没」の作者桐野夏生へのインタビューを含んでいるので、おそらくこの特集がイメージしているディストピアとは桐野の問題意識につながるのであろう。その桐野は、自分の小説が「反社会的」と受け取られている風潮に危うさを感じているという。そうした風潮は一般の国民たちによって担われており、それを権力が利用するとディストピアが実現してしまう怖さがある。コロナがそうした風潮を後押しした。自粛警察とかマスク警察といった現象は、国民による下からの検閲だ。国民の間に広がるこうした不寛容さに、桐野は日本人の本質を見た気がするという。

桐野は、自分の小説が「反社会的」といわれることに抵抗を感じていないようだ。「小説は本来そういうものではかいかと強く感じ」るというのだ。その上で、小説は「善なるものだ」という。「小説には悪に向かう力はないような気がします。小説のように、言葉を使って表現するものは、善なるものだと思う」というのである。

そんなわけで、桐野自身はまだ日本が完全なディストピアになっているとは考えていないようだ。しかしこれ以上日本人が不寛容になって、権力がそれを検閲に利用するようになれば、ディストピアになっていく可能性は大きい、という問題意識は持っているようである。だから、彼女のこの問題(日本のディストピア化)についてのスタンスは、一般の日本人に向って警告するという姿勢をとることにあるようだ。

このインタビューに先駆けて載っている松村圭一郎の小文「人間であることが困難な世界で」は、おそらくパレスチナ人の苦境を意識しているのだと思う。松村はこの小文の中で、人間が人間に対して残虐になれる理由を、「奴隷」を切り口に考察している。奴隷は人間同士の関係性から切り離され、交換可能な財として扱われる。財は所有者の意のままになる。だから奴隷の生殺与奪は所有者の自由に任せられる。いまイスラエルのシオニストがパレスチナ人に対して振舞っているのは、奴隷を相手にふるまうのと異ならない。そこにシオニストの残虐さの理由がある。そんなふうに考えさせられる文章である。もっとも松村本人はシオニストとパレスチナ人の関係を具体的に指摘しているわけではないが。





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