ニーチェにおける問いの立て方:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から

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議論というものは、問いの立て方次第で大体の方向が決まるものだ。その問いは疑問というかたちをとるが、その疑問は多くの場合、というよりほとんどの場合、議論の参加者すべてに共通した問題をめぐるものである。というのも、一部の人にだけ関心を持たれるだけで、大部分の人あるいは多数の人に関心を持たれない問題は、そもそも議論の題材とはならないからだ。議論というものは、最低限共通の土台の上でなされる必要があるのだ。ところが、大部分の人にとって共通する問題とは、じつはどうでもよいことだ、とニーチェは言う。なぜならそういう問題は、人間の大多数をしめる凡愚な連中にとって意味を持つにすぎず、したがって現実の秩序の容認を前提としている点で、ロバが背負う荷物と異ならないからだ。そういう連中の関心事は、自分たちの利益を守ろうとする動機に駆られている。その利益は奴隷の利益である。だから、問いの立て方を問題にするときには、たとえば真理とは何かといったような、万人に共通するような外観を呈しているような場合には、それを疑ってかからねばならない。誰がその問いを発したかを、見極めねばならない。奴隷の発した問いは、所詮奴隷の利益を守ろうとするものである。真に有用なのは、人類全体の向上につながるような問いであり、それを発することができるのは、一部のエリート、つまり超人なのだ、というのがニーチェの基本的な考えである。

このように、「誰が問いを立てるか」ということにこだわるニーチェの方法論的な意識をドゥルーズは、ニーチェのもっともニーチェらしい振舞いだと評価する。「誰が問いを立てるのか」という問いは、一方では奴隷道徳の起源を明かすことにつながるとともに、もう一方では、エリートの役割を前景化する。ニーチェは奴隷道徳を破壊し、それに替えるに真の強者の価値創造を目指すので、誰がそのような問いを立てるのかという問いの形式は、エリート対奴隷の戦いを明るみに出すうえで、とりあえず有効なやり方なのである。

奴隷の道徳を体系化したものが西洋の伝統思想だと考えるニーチェは、その伝統の起源をソクラテスとプラトンに見ていた。かれの処女作「悲劇の誕生」は、とりあえずはアポロン的なものとディオニュソス的なものとの対立を取り上げていたが、実はディオニュソス的なものとソクラテス・プラトン的なものとの対立だというのがドゥルーズの見方である。そのソクラテス・プラトン的なものにおける問いの立て方は、本質とは何か、真理とは何か、といった具合に、「とはなにか」という形をとる。これは議論の前提となる現存の秩序を容認したうえで、なおかつその秩序を構成するものについて、それは何かと問うものである。そうした問い方は、基本的に現前の秩序を守護する役割を果たしているに過ぎない。大事なのは、現存する秩序を守ることではなく、人類を一層の高みに引き上げることである。それができるのは、一握りのエリートである。だから、問題なのは、果たしてエリートなのか、あるいは凡人なのか、いったい誰が問いを立てているのかを見定めることである。凡人の問いの立て方は、現存秩序を守る役割を果たすに過ぎない。それに対してエリートの問いの立て方は、人類を一層の高みに持ち上げる効果をもたらす、というのが、問いの立て方についてのニーチェの考えだったとドゥルーズは言うのである。

そういう問いの立て方においては、真理とはなにかとか、本質とは何かといったことは、大した意義を持たない。本当に意義あるものは、価値、それもエリートにとっての価値の創造なのである。ニーチェは万人に共通する真理などというものを軽蔑する。というより真理そのものを軽蔑するのである。ニーチェは言う、「われわれが真理を意志するということを認めるとしても、なぜわれわれはむしろ非真理を、不確実を、また無知をさえ、意志しないのであろか」(足立和弘訳)。真理が意義を帯びるのは、ニーチェによれば、それがエリートの意思を価値あるものたらしめる限りにおいてである。それ自体としての真理などというものは、奴隷の好むたわごとに過ぎない。

本質についても、真理の場合と同様のことが言える。本質とは、事象がそれ自体として内在させている自立した属性ではなく、人が事象に付与する意味と価値なのだ。誰が本質について問いを立てるかに応じて、その意味と価値の付与の仕方は異なる。奴隷は奴隷らしく意味付与し、エリートはエリートにふさわしい意味付与をする。だから、「本質とはつねに意味と価値なのだ。かくして『誰が』という問いは、あらゆる事物にとって、またあらゆる事物に関して、『どんな力が』、『どんな意志が』という風に聞こえる」のである。

以上を踏まえてドゥルーズは次のように言う。「真理への意思はやはり禁欲主義の理想に由来するものであり、やり方は相変わらずキリスト教的である・・・ニーチェが要求するのは別のこと、つまり理想の変更、別の理想、『別の感じ方』なのだ」。「別の感じ方」とは、奴隷ではなく超人が感じるような感じ方という意味である。奴隷の感じ方を拒否して、超人の感じ方を共有すれば、我々人類は一層の高みに舞い上がることができる、というわけである。






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