ドストエフスキーの小説「悪霊」を読む

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「悪霊」は、ドストエフスキーのいわゆる五大長編小説の三番目の作品である。最後に書かれた「カラマーゾフの兄弟」と並んで、かれの最高傑作との評価が定着している。たしかに、テーマの重さとか、構成の見事さなど、優れた小説としての要件を満たしている。しかも、ドストエフスキー自身の思想も盛り込まれている。この小説を書いた時点でのドストエフスキーは、若いころの自由主義的でかつニヒルな考えを克服して、いわゆるロシア主義的な思想を抱いていた。この小説は、自由主義とか社会主義あるいはニヒリズムを批判することに急である。それに替えて、伝統的なロシア主義を主張するような描写が多い。その主張は、たしかにドストエフスキー自身の当時の思想を踏まえたものといえる。だが、これは小説であって、プロパガンダではないので、ドストエフスキーはそうした主張をたくみに、つまり文学的な形で表現している。それがさも文学的に見え、ドストエフスキーによるプロパガンダと感じさせないところが、この小説の巧妙なところだろう。

ドストエフスキーがこの小説を書く気になった直接の動機はネチャーエフ事件である。これは1869年に起きた殺人事件で、ドストエフスキーに大きな衝撃を与えたと思われる。かれはその事件をモデルにして、事件後さっそく小説の構想に取り掛かり、二年後の1871年から雑誌に連載を始めた。ネチャーエフ自身は、革命家を自認していたが、たいした思想があったわけではなく、ナロードニキ的な激情にかられて行動していた。その行動が逸脱して、仲間内でスパイ騒ぎが持ち上がり、スパイの嫌疑をかけたメンバーを殺害したというものである。そういう事件の特徴をドストエフスキーはそのまま生かす形でこの小説を構想した。それについては、ネチャーエフをピョートル・ヴェルホーヴェンスキーという人物に仮託し、かれをとりまくいくつかの人物像に、社会主義だとかニヒリズムをかぶせている。それにニコライ・スタヴローギンという全く新しい人間像をからませることで、小説の構成に厚みを持たせている。

この小説の中心軸は、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーである。この人物にドストエフスキーはネチャーエフを重ねている。その上でかれを、世界的な革命運動と結び付けている。その革命運動が社会主義をイメージしていることは、文中たびたび社会主義インターナショナルへの言及があることからうかがえる。ドストエフスキーは、ロシアにも西欧の社会主義運動の波が押し寄せていると感じ、それに対してかれなりの危機感を覚え、それを小説という枠のなかで表明したのではないか。

しかし、小説の形式上の主人公はニコライ・スタヴローギンに設定されている。スタヴローギンは、ピョートルやかれを取り巻く人間たち(革命運動のメンバーたち)に精神的な影響を及ぼし、かれらによって指導者と見做されているのだが、自分自身は、その運動には具体的なかかわりはもたないし、また、かれらによるスパイ殺害事件にもかかわってはいない。そういう人物が小説の主人公としてユニークな役割を果たしているので、この小説は単なる革命騒ぎをめぐる物語という範疇を大きく逸脱し、壮大さを感じさせるようなものになっている。

スタヴローギンをめぐる逸話の数々を別にすれば、この小説は、社会主義運動組織によって引き起こされた革命騒ぎと、それに関連した仲間割れを描いたものと言える。その革命騒ぎとか仲間割れといったものが、戦後の日本の学生運動に似ているというので、この小説は、そういう流れとの関連において、日本では読まれたという経緯を指摘できる。だがそれは小説そのものとはあまりかかわりのないことなので、ここではこれ以上触れない。

ともあれ、この小説が、レーニンが左翼小児病と呼んだような、幼稚な社会主義運動を茶化したものだということは間違いないと思われる。その小児病を引き起こしているのが悪霊というわけである。この小説のタイトルとなった悪霊とは、新約聖書のルカ伝からとられたものである。人間にとりついていた悪霊が、イエスの許しを得て人間から豚に乗り移ったとたん、崖から湖に落ちておぼれ死んだという逸話である。その逸話をもとに、社会主義者たちには悪霊が取りついているとほのめかしたわけである。

聖書のこの逸話は、プーシキンの詩の一節とならんで、本文に先立つ冒頭の部分で引用されているほか、小説の最後に近い部分で、ステパン先生が聖書売りの女と対話する場面でも出てくる。そのほか、本文には入らなかった「スタヴローギンの告白」の中でも出てくる。というか、「スタヴローギンの告白」を本文から排除したために、それにかわるものとして、ステパン先生にこの逸話を語らせたのだと思う。そんなわけだから、ドストエフスキーはこの悪霊という言葉に、かなりこだわっていたということができよう。こういう言葉を使うことで、社会主義思想とその運動を罵倒したかったのかもしれない。

この小説には、社会主義思想のほか、ナロードニキの思想とか、無政府主義とか、ニヒリズムとか、ロシア主義といったものもとりあげられる。小説でありながら、思想のオンパレードになっているのである。そうした色々な思想のなかで、ドストエフスキーが自分にもっとも親和的だと考えたのがロシア主義だと言えそうである。そのロシア主義をもっともスマートに体現しているのは、シャートフであるが、かれはピョートルらの一味によって殺されてしまう。それによってドストエフスキーは何を言いたかったのか。おそらくロシア的なものへの、自分自身の両義的な感情を吐露したかったのかもしれない。

なお、ドストエフスキーのこれ以前の小説は、だいたいペテルブルグを舞台にしているのだが、この小説の舞台は架空の(あるいは匿名の)都市である。その都市には社交界があり、また大勢の労働者を雇用する工場(シュピグーリン工場と呼ばれる)が存在することから、結構大きな都市だと思われる。社会主義運動が起ってもおかしくないようなところなのである。じっさい、労働組合らしきものによる争議も起こる。社会主義への懐疑をテーマとするこの小説にはふさわしい舞台といえよう。






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