都機:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十三「都機」の巻。都機は「つき」と読む。「月」のことである。この巻は、月を題材にして、悟りの境地と、その内実たる真理について語る。月は心と同定され、あるいは心の象徴とされ、その心が悟りの境地に達したことを、月が円成することにたとえる。その円成は、いきなり実現されるのではなく、実は伏線がある。月は本来丸いものなのだが、人目には満ち欠けするように見える。しかし満ち欠けするように見えるのは、見かけのことなのであって、本当は、月は常に丸い。その丸さが月の本来の姿であって、満ち欠けするように見えるのは仮象にすぎない。それと同じように、人の心は本来、仏性を備えたものである。ところが、日常においては、煩悩にさいなまれている。それは心の仮の姿であり、それを脱して本来の姿、それをここでは真法身と呼んでいるが、その真法身に目覚めるというのが悟りの内実である。そんな趣旨のことが、この巻では、とりあえず説かれているのである。

五つの部分から構成される。最初の部分は、「諸月の円成すること前三々にあらず、後三々にあらず」から始まる。これは、月というものは満ち欠けするように見えるが、実は円成した状態が本来の姿だということをいっている。円成というのは、丸い姿が、つまり満月が月本来の姿だという意味である。それに対して前三々、後三々というのは、何日目の月という意味だが、それは月の仮の姿にすぎない。

ついで、釈迦牟尼仏の言葉「仏真法身、猶如虚空、応物現形、如水中月」が引用される。これは、仏の真の法身は虚空のようなものだという意味。虚空というのは、空虚ということではなく、実体がないということである。そういう意味のことは「般若経」にも説かれている。だからこれは、般若経の空の思想と近いものを思わせる。そうした実体のない真法身であるが、それ自体の実体は持たないとしても、しかし宇宙の運行に密接なかかわりを持っている。そのかかわり方は、物に応じて形を現ずるというもので、水中の月の如くである。

仏の真の法身というのは、仏陀とは生きた人間の姿で考えるべきものではなく、抽象的な原理としての真理というふうに考えるべきだという意味である。仏陀とは真理に目覚めたひとをさすのであり、その真理を真の法身と呼ぶわけである。そういうわけで、第一の部分は真の法身の意味について説いている。それは本来不変なものである点で、円成せる月の如しだというのが、この巻で月がもたされている意義である。

第二の部分は、盤山宝積禅師の言葉、「心月孤円、光呑万象、光非照境、境復非存、光境倶亡、復之何物」についての評釈。心月は、見方によっては心とも見え、月とも見えるもの、月としての心、心としての月というような意味だろう。それが孤円である。孤円というのは、それ自体完成した円、つまり円成ということであろう。その心月の光が万象を呑む。万象とは存在界の全体ということだから、それを光が呑むというのは、月ないし心の光が万象の根本的なよりどころだということであろう。道元には唯識派に似た考えがあって、その唯識派の唯心論的な傾向を、ここに指摘できるのではないか。

第三の部分は、古仏(道元の師、如浄のことらしい)の言葉「一心一切法、一切法一心」についての評釈。一心とは悟りに達した心、円覚のことをさす。一切法はすべての存在。だからこの語句は、円覚によって達した悟りの状態が、すべての存在の根拠になるということである。その円覚はまた、円成した月にたとえられるから、すべての存在が月であるということになる。月は無論、心のたとえである。

第四の部分は、投子山慈済大師とある僧との問答についての評釈。僧が、満月の前の月はどんな状態かと問うたところ、大師は、つぎつぎと月を飲み込んで大きくなっていくと答え、満月の後の月はどうかと問われると、次々と月を吐き出して小さくなっていくと答えた。これは一見、大師が月の満ち欠けについて語っているようにみえるが、実は、満ち欠けは仮象に過ぎないということを説いているというのである。

第五の部分は、釈迦牟尼仏が金剛蔵菩薩に告げた言葉「譬如動目能搖湛水、又如定眼猶回転火。雲駛月運、舟行岸移、亦復如是」についての評釈。これは眼玉を動かすと静かな水も揺らめいて見え、目玉が定まっていても、火を回転させれば回転するように見えるという意味。同じように、雲が動いていると月が動いているように見え、また、船に乗っていると岸が動いているように見える、ということである。これによって何を言いたいのかというと、ものごとというものは、絶対的な相において見るべきではなく、つねに相対的な関係において見ることが肝要だということである。要するに、縁起の説を簡単に述べているわけである。

この巻全体を締めくくるものとして、次のような語句が置かれる。「円尖は去来の輪転にあらざるなり。去来輪転を使用し、使用せず、放行し、把定し、逞風流するがゆゑに、かくのごとくの諸月なるなり」。円尖は月の満ち欠け、去来の輪転は時の推移にしたがった変化。月の満ち欠けは時の推移にしたがった変化ではないといっているわけだ。ところがすぐそのあとで、「去来輪転を使用し使用せず、放行し、把定し、逞風流する」と言っている。これは矛盾した言い方だが、道元はよくこうした言い方をする。その意図は、ものごとというのは、一面的に見てはいけないということだろう。この場合でいえば、月の満ち欠けを仮象であり、実在性を持たないとする見方と、月の満ち欠けはそれとして実在性を持つのだとする見方と、二つあるとして、そのどちらかにこだわってはいけない。それらを共に含みこんだ見方、高度な見方が必要なのだと道元は言いたいようである。






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