民主主義とリベラリズム 落日贅言

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月刊雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)が「リベラルに未来はあるか」という特集をやっていて、それを読んだ小生はいささか考え込んでしまった。この特集は、タイトルから推測できるように、いわゆる「リベラル」な価値に疑問を呈している。まあ、リベラルという言葉は、アメリカ人が好んで使うもので、日本人はあまり使うことはない。小熊英二によれば、日本でリベラルという言葉が使われたのは、1986年の衆参同一選挙のときからだという。その際に、社民連の江田五月が「リベラル派」の結束を呼び掛けた。江田が「リベラル」という言葉で表していたのは、「非保守・非共産」ということだった。それ以来日本では、「非保守・非共産」という意味で「リベラル」という言葉が使われてきた。つまりきわめて空疎な言葉であり、積極的な意味合いは持たなかったと言うのである。

そんなふうに片づけられると腰が抜けてしまい、この言葉をまともに受け取るのが馬鹿らしくもなる。だが、こと目を世界に向ければ、アメリカはもとより西欧諸国でも「リベラル」という言葉は、それなりに積極的な意味を持たされている。「世界」が問題提示したのは、そうした積極的な意味合いでの「リベラル」のもつ価値が信用失墜し、未来に希望を抱かせるような輝きを失ったのではないか、というものであろう。たしかに欧米諸国では、リベラルという概念は、政治的にも社会的にも一定の指針を指し示す言葉であり続け、民主主義と並んで、欧米流のいわゆる普遍的な価値の中核をなすものと考えられてきた。そういう意味での普遍性を、リベラルは失いつつあるのではないか、というのが「世界」の問題意識としてあったのではないか。そういう懸念は小生にもわからぬではない。小生は、リベラルという言葉にはそんなにたいした意義は感じないが、民主主義については、ある程度の懸念は感じている。というのも、近年国際関係が流動化する中で、民主主義という言葉がご都合主義的に使われ、言葉本来の意味が曖昧になってきているからだ。

そんなこともあって小生は、民主主義とリベラリズムということについて、ちょっとした反省を行った次第である。以下はその反省を通じて小生が考えたことである。

民主主義という言葉がご都合主義的に使われている例としては、アメリカが自国の世界戦略を民主主義の名のもとに合理化していることだろう。最近では、ウクライナ戦争をめぐってロシアに敵対的な態度をとっているが、それを民主主義のための戦いだと言って合理化している。民主主義国家であるウクライナが、専制国家であるロシアに侵略されているから、民主主義を守るためには、ウクライナの側に立って戦うという理屈だ。しかしウクライナがロシアよりもはるかに民主主義的な国家体制だとは、そう簡単には言えないのではないか。選挙によって選ばれた権力が国を統治するのを民主主義とすれば、ロシアのプーチンだって選挙によって選ばれている。

アメリカや西欧諸国は、今般のイスラエルによるガザ住民の大虐殺(ジェノサイド)をめぐって、自衛権の名のもとにイスラエルを支持している。その最大の理由として、イスラエルは中東で唯一の民主主義国家であり、そのイスラエルの存亡はこの地域の民主主義の存亡に大きな意義を持つ。だから民主主義国家であるアメリカや西欧諸国が、同じ民主主義国家であるイスラエルを支持するのは当然のことだ、という言説が欧米では盛んである。あたかも、民主主義はジェノサイドと両立できると言わんばかりである。ジェノサイドを行う民主主義は形容矛盾ではない、というわけである。

こんなことになるのは、民主主義という言葉が無限定に、つまり恣意的に使われているからだ。民主主義という概念は、もともとは統治形態にかかわるものであり、基本的には特定の国の内政をめぐる議論から出てきたものである。特定の国の権力の正統性の根拠として民主主義という概念が確立されてきた歴史的な経緯がある。それは権力の正統性を保証するのが役目であり、その権力が実際にどんな内政を行うかはまた別の問題だった。カール・シュミットはそこに注目して、民主主義は特定の政治的価値とは結びつかない。政治的価値としての自由主義と結びつくこともあれば、専制主義と結びつくこともある、と言った。じっさい民主主義的な選挙から全体主義が生まれた例はいくつもある。

そんなわけで、民主主義という概念は、国際関係とは違った次元のものである。ところが、最近ではアメリカが音頭をとって、国際関係においても民主主義という言葉が使われるようになった。先ほど言及した民主主義国家対専制国家の戦いというのは、その典型的な例だ。これは第二次世界大戦のときにすでに有力な概念として使われていた。この大戦はルーズヴェルトらによって、ナチスなどの全体主義国家から、民主主義国家を守るための戦いだと宣伝されたものである。しかしよくよく考えると、国家間の関係に全体主義も民主主義もないのであって、あるのは冷徹な現実主義だけである。国家そのものは人間とは違うのだから、その人間の間での政治的な取り決めである統治形態としての民主主義は、国家間の関係とはまったく違う次元に属するのである。それをあたかも、国家を個人に置き換えて、個人を地盤とする民主主義の概念を、国家間の関係にも適用しようとするから無理が出る。

民主主義という概念は、あくまでも統治形態にかかわるものであり、実際の政治的な価値とはかかわらない、ということを押さえておく必要がある。シュミットが言うように、民主主義が独裁と結びつくこともありうるのだ。今年のアメリカ大統領選挙では、トランプの勝利が有力視されているが、そのトランプは、自分が大統領に返り咲いたら、独裁者としてふるまうと明言している。もしそれが実現したら、アメリカ国民は、民主主義を通じて独裁者を選んだということになろう。

アメリカや西欧諸国の政治や社会体制を実際に駆動している理念は、民主主義ではなく、リベラリズムである。これは資本主義的な経済システムと非常に親和的であるために、国際関係の分野でも大きな指導理念となりうる。バイデンら欧米の指導者が好んで使う民主主義という概念は、実はリベラリズムのことを言っているのである。なぜリベラリズムという言葉ではなく、民主主義という言葉を使うのか。それはやはり、リベラリズムという言葉にある種のいかがわしさがあることを、政治家たちが自覚しているからであろう。民主主義という言葉は非常に明るいイメージを感じさせ、否定的な要素はほとんど見られない。それに対してリベラリズムの概念には、人間の自由と尊厳を重視するというような肯定的なイメージがある一方、弱肉強食といったような否定的なイメージもある。それは資本主義システムのもつ両義的な性格を反映したものだ。資本主義にも、自由な経済活動という肯定的なイメージと、格差とか分断といった否定的なイメージが混在している。

それでも、リベラリズムは、民主主義と結びつきながら、長い間欧米諸国や日本にとっての指導理念としての役割を一応は果たしてきた。民主主義とリベラリズムは、つねに一体として扱われた結果、まったく同じものだという意識まで生じてきた。リベラルでない民主主義は考え難いとされたのである。その場合、リベラルは、その否定的な側面は無視され、肯定的な面ばかりが強調された。あたかもリベラルは万能の概念であり、一切瑕疵を含まないというかの如く扱われたわけである。ところが、そうした思い込みを覆すようなことが目に余るようになった。リベラルという概念がもともと備えていた否定的な面が目に付くようになってきたためである。

そういうわけで、リベラルという概念が今日あらためて問題とされ、リベラルに希望はあるかなどと言われる事態を招いているわけである。リベラルに疑問が呈されると、そのリベラルと並置されてきた民主主義にも疑問が向けられる。その動きを強く促したのが、欧米諸国のいわゆるダブル・スタンダードのふるまいである。欧米諸国は、たとえば人権とか平和といったリベラルな主張を、かなり恣意的に使い分けている。ロシアの侵略的な行動に対しては強い非難の言葉を浴びせる一方で、イスラエルのジェノサイドについては、非難するどころか、それを支持しているありさまである。これでは、普遍的な価値を尊重したふるまいとは到底いえないであろう。

こんなわけであるから、民主主義とリベラリズムという、これまで欧米中心の世界が準拠すべきだとされてきた理念が足元から揺らいでいる。それに代わる理念は、そう簡単には見つからないだろう。こと日本についていえば、日本にはあえてリベラリズムと言えるような伝統はないし、また、民主主義についても為政者自らが、民主主義の理念を体現した憲法に否定的な態度をとり続けているありさまであり、そもそも民主主義とかリベラリズムに危機意識をもつ土壌が欠けているともいえよう。





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