ドゥルーズ「差異と反復」 解説と批判

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ジル・ドゥルーズが1968年に出版した著作「差異と反復」は、かれの前半期の営みを集大成する業績である。かれがこの著作の中で展開したのは、西洋の伝統的な哲学思想(それをかれは形而上学と呼んでいる)の解体であり、そのうえで、全く新しいタイプの思想を構築しようというものだった。そうした問題意識は、ほぼ同時代を生きたライバル、ジャック・デリダと共有していたものだ。デリダのほうは、1967年に「声と現象」や「グラマトロジーについて」などを出版しており、それらの中でやはり西洋の伝統思想である形而上学の解体を目指していた。それをデリダはのちに脱構築という言葉で呼ぶようになるが、1967年の時点ではまだ大っぴらには使っていなかった。ドゥルーズのほうは、脱構築などという大げさな言葉は使わなかったが、西洋の伝統哲学に対する破壊的な攻撃力は、より深刻なものだったといえる。

ドゥルーズは、近現代の何人かの思想家についての個別研究からキャリアを始めた。かれが研究対象として選んだのは、ヒューム、ニーチェ、カント、ベルグソン、スピノザといった思想家たちであり、それぞれについてユニークな業績を残している。これらのうちドゥルーズが自分の思想形成のうえでもっとも強い力点をおいたのはベルグソンとニーチェである。ベルグソンからは差異の思想を受け継ぎ、ニーチェからは独特の反復概念(永遠回帰と呼ばれる)を受け継いだ。その二つの概念、すなわち差異と反復を絡ませあいながら、ドルーズは自分自身の独自の思想を練りあげたと言える。

ドゥルーズはこの二つの概念を駆使して、西洋の伝統的な思想(形而上学)の根本的な解体をめざす。かれは形而上学の本質的な特徴を「同一性」へのこだわりに見ている。同一性というのは、プラトン以来西洋思想の骨格をなした概念である。思考主体の同一性、思考対称の同一性、この二つの同一性を根拠として世界は成り立っている。そう形而上学は考えてきた。

だから、その同一性の根拠を掘り崩し、同一性の確実さを破壊してしまえば、形而上学の存立はおぼつかなくなる。ドゥルーズはそう考えて、同一性に対する全面的な攻撃に打って出るのである。その際にかれが依拠した概念が差異であり、反復である。常識的な意味では、ということは形而上学が依拠する考えからすれば、差異は同一性を前提としており、反復もまた同一性を前提している。差異は、あるものの別のあるものとの相違であるが、相違が前景化するには、別のあるものがそのものとして前提されていなければならない。ということは、別のあるものがそれ自体自分に等しい者として前提され、それとの比較で、あるものがそれと相違しているというふうにならねばならない。その別のあるもののそれ自体としての在り方は同一性そのものであるから、形而上学的な考え方からすれば、差異は同一性を前提しているということになる。

同じく反復も同一性を前提としている。反復というのは、あるものが繰り返されるということを、形而上学では意味している。つまり、同一のあるものが繰返し反復されるというのが形而上学の考えなのである。

そういう考えに対してドルーズは根本的な疑念を向ける。かれは、差異と反復についての形而上学的な概念規定を否定し、それらについての独特の解釈を示す。かれによれば、差異とは同一性を前提としてはおらず、むしろ同一性を根拠づける。差異が根源的なあり方なのであり、そこから同一性が生じてくる、とするのである。同様に、同一なものが反復するのではなく、差異が反復するとする。差異が反復するというのはどういう意味か。かれはニーチェの永遠回帰の思想を持ち出してきて、永遠回帰が同一物の回帰ではなく、差異の反復だとする。差異の反復というのは、反復される、あるいは回帰する、そのたびに新たなものが創造されるということである。同一物の反復では、新しいものは何ら生まれないが、差異の反復においては、反復のたびに新しいものが創造される。

つまりドゥルーズの思想は、差異と反復に新しい意味を持たせることで、同一物についての伝統的な考えに風穴をこじ開け、同一性の存立根拠を破壊することを目指したものなのである。同一性の根拠を掘り崩してしまえば、同一性の上になりたっている形而上学の思想体系全体を崩壊させることができる。ドゥルーズにはそうした展望があって、かれなりの差異と反復の概念セットを駆使して形而上学の解体に邁進したといえる。

この著作は七つの部分からなる。五つの章と序論及び結論である。序論では差異と反復についての伝統的な概念規定の整理とそれへの批判、第一章と第二章は、差異と反復それぞれについての詳細な解明、第三章は伝統的な思想を成り立たせている土台としての臆見への批判、第四章は理念について、第五章は意識の直接与件としての感覚的なものの批判である。それらを踏まえたうえで、結論部分では、差異と反復を中核とした新たな思想への展望が語られる、という構成になっている。

ところで、差異といい反復といい、ドゥルーズ独特の意味を持たされた、かなりユニークな概念である。その意味合いは、それらの言葉がもっている常識的な意味とは全く異なっている。だから、そこに違和感を覚えれば、ドゥルーズの意見にはついていけないと反発する向きもあるかもしれぬ。しかしそうでもしなければ、西洋数千年の歴史に裏打ちされた伝統的な形而上学を解体することはできぬ、とドゥルーズは言うであろう。それは開き直りだと反発する人も出てくるだろう。だがここでは、しばしドゥルーズの主張に耳を貸し、かれのその主張から何が飛び出してくるか、それを確かめてみたい。そのうえで彼の思想の有効性について、その是非を云々して遅きに失するということはない。

まずもっての印象は、ドルーズの形而上学批判が、ニーチェに追うところが多いということである。差異という概念はそもそもベルグソン由来であるが、それにニーチェを絡ませることで、ベルグソンの差異概念からはまったく異なったものに変わってしまった。ベルグソンの差異は、感覚的な与件から浮かび上がってきたものであり、その限りで知覚の働きの相関者にすぎなかった。ところがドゥルーズの差異は、それ自体として独立性を主張できるようなテイのものである。それを差異絶対主義といってよいほどである。差異は相対的な概念ではなく、ある種の絶対概念に昇格しているのだ。反復についても、これをニーチェの永遠回帰と結びつけることで、常識的な意味での反復概念とはまったく違ったものになってしまっている。ドゥルーズを読むにあたっては、かれのそうした独善的ともいえるやり方を割引しながら読まねばならぬところもある。それを頭に置きながら、このユニークな著作を読み解いていきたい。






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