それ自身へ向かう反復:ドゥルーズ「差異と反復」を読む

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「差異と反復」の第二章は「それ自身へ向かう反復」と題されている。これは反復について立ち入って分析したものだ。それをドゥルーズは「それ自身へ向かう反復」と表現した。この表現は、差異を主題的に論じた第一章のタイトル「それ自身における差異」と同様奇妙なものである。むしろより一層奇妙といってよい。反復とは、常識的な意味では、つまり伝統的な意味では、反復されるものを前提にしている。それは反復するものとの間に密接な関係を持っているはずだ。その密接な関係とは、同一性のことである。反復するものと反復されるものとの間に何らかの同一性を認めるからこそ我々は、あるものが反復した、あるいは反復されたと考える。常識的な考えでは、差異が同一性を前提としていたように、反復もまた同一性を前提している。ところがドゥルーズは、そうした常識的な考えに異議を唱える。反復とは、同一のものの繰返しではなく、差異が反復されると考えるのである。「それ自身へ向かう反復」という言葉には、そうしたドゥルーズの考えが反映されていると思うのだが、この言葉からそうした考えがストレートに伝わってくるようには見えない。「それ自身」というのが、それ自身との同一性なのか、あるいはドゥルーズのいう差異としてのそれ自身なのか、この言葉からははっきりとわからないのである。

同一物の反復という伝統的な考えを批判するについて、ドゥルーズはヒュームの懐疑論を持ちだす。ヒュームは、因果関係をめぐる議論において、因果関係のように見えるものは、実は時間的に前後しておきた二つの現象の間に密接な関係を認める精神の働きによるものであり、それら二つの事象はまったく別物で、互いに関係はないのだとした。その議論をドゥルーズは、反復をめぐる自分の議論に応用するのである。

ドゥルーズはこの章を、ヒュームの次のような言葉の引用から始めている。「反復は、反復する対象に、何の変化ももたらさないが、その反復を観照する精神には何らかの変化をもたらす」(財津理訳)。これは、反復の担い手としての現象そのものには何らの変化もないが、精神がそれにある作用を及ぼすことによって、あたかも現象相互の間に何らかの関係があるように見えるだけだといっているのである。その何らかの関係のうちで、もっとも重要なものが因果関係であることは言うまでもない。引用されたヒュームの言葉は、因果関係を否定する議論の中で出てくるのである。ヒュームによれば、因果関係は実体的な関係ではなく、精神のある傾向性を反映したものなのである。その傾向性とは、精神的なものを物象界にそのまま適用しようとする傾向である。精神の惰性とも慣習とも言い換えられる。

そうしたヒュームの考えを拠り所にしながら、ドゥルーズは何を主張するのか。同一物が反復しているように見えるのは、精神の勝手な働きによるのであり、当の現象そのものには何らの相互関係もない、全く違ったもの、つまり差異が、前後して生成しているに過ぎない、という議論にドゥルーズは引っ張っていくのである。現象界そのものは、差異で折りなされている。それに因果関係とか同一物の反復とかいった関係づけをするのは、精神の側の勝手な働きによる、というふうに議論を展開していくのである。

ところで反復は、同一物の反復であろうと、差異の継起であろうと、時間を前提にしている。であるから、反復についてのドゥルーズの議論は、時間論という形をとる、じっさい、第二章は時間についての議論にほぼ終始しているのである。

時間を議論の根底にすえるというやり方は、ベルグソンから学んだものだろう。ベルグソンは、人間の精神の本質は純粋持続としての時間性にあるとして、時間の分析にいそしんだ。それに学んだドゥルーズも、時間を中軸的な概念として、かれなりの哲学体系を構築している。対象の認識は、時間のなかで行われる、というのがかれの基本的なスタンスである。デカルトのように時間を無視しては、正当な対象認識は不可能である。だから、時間を基本のカテゴリーに含めたカントは偉大だったと評価している。

ドゥルーズは対象の認識作用を、時間の中における総合、あるいは時間の総合という形で分析する。それには三つの総合がある。第一の総合は、現在を土台とした総合である。第二の総合は、現在にとじこめられることのない純粋過去がかかわるものである。第三の総合は、未来を基準にしたものである。未来が基準となって、現在と過去が再構成される。その未来を基準とした時間の総合は、そのままニーチェの永遠回帰につながるのである。

時間の第一の総合は、現在の中で行われる。現在は瞬間的なものではなく、厚みを持っている。そこでは過去は過ぎ去りつつある現在として、未来はやがて来るべき現在として構成される。そこにおいて決定的なのは、想像力の働きである。この働きがあるおかげで、人間は現在を固定した瞬間としてではなく、時間的な厚みを帯びた、流れゆくものとして捉えることができる。また、その想像力の働きが、反復の中に同一性を認めたりするのである。言い換えれば、人間には想像力の働きがあるから、現象相互の間に、様々な関連を認めることができるのである。ヒュームのいう習慣は、この想像力に支えられていると言える。

時間の第二の総合は、純粋過去としての記憶の働きに注目するものだが、これもベルグソンから得た発想だろう。ベルグソンは、対象の認識についての記憶の働きの重要性を重視した最初の思想家といってよい。そのベルグソンに学んだドゥルーズとしては、時間論に記憶を導きいれるのは自然なことに思われたのであろう。

第三の総合は、未来にかかわるもので、これに関連して二つの議論が出てくる。一つは永遠回帰であり、もう一つは無意識である。未来にかかわる議論になぜ無意識が出てくるのか、わかりづらいところがあるが、無意識は、差異を差異としてそのままにたわむれさせるというところに、ドゥルーズは注目したのではないか。永遠回帰と関連付けられた未来は、差異が差異としてそのままに生成するような世界をイメージしており、そうした意味合いで、無意識に通じるところもある。いずれにしても、ドゥルーズの理解した永遠回帰とは、生成と創造、過剰といったものをイメージしている。






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