渓声山色:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十五は「渓声山色」の巻。諸仏がそれぞれさとりを開いた経緯を記しながら、さとりとは理屈ではなく、体験によってもたらされると説く。それも突然生じるような体験だ。ある時、あることをきっかけに、突然悟りを得る。これは知識の賜物ではなく、また得ようと努力・修行して得られるものではない、無論修行は大事だが、修行が則さとりにつながるわけではない。さとりというのは、わけもなく突然やってくるのである。その典型例として道元は、偉大な詩人として知られる蘇軾の体験をあげる。蘇軾はあるとき、渓声山色を聞いて、忽然さとりを得るところがあった。その蘇軾の例に倣い、悟りを得る秘訣を道元は「渓声山色」という言葉で表したのである。

まず、その蘇軾が渓声山色によって悟りを得たことから説く。蘇軾は、ある日廬山に上った時に、溪水の夜流する聲をきいて悟道し、その折の心境を偈にして常總禪師に呈したという。その偈にいわく、
  谿聲便是廣長舌
  山色無非清淨身
  夜來八萬四千偈
  他日如何擧似人
これは、谿聲こそが仏の教えの声であり、山色は悟りを得た清浄な身である、その境地は言葉でもって伝えられるものではない、という意味である。つまりさとりの境地というのは、言葉や理屈で得られるものではなく、一瞬の体験によって得られると説いているわけである。

ついで、諸々の仏祖たちのさとりの体験が語られる。香嚴智閑禪師は、「道路を併淨するちなみに、かはらほとばしりて竹にあたりて、ひびきをなすをきくに、瞎然として大悟す」という。瓦が竹にあたって響きを立てる音を聞いてさとりを開いたというのである。

靈雲志勤禪師は、「桃花のさかりなるをみて、忽然として悟道す」という。桃の花が満開に咲いているのを見てさとりを得たというのである。

また、長沙景岑禪師がある僧から「いかにしてか山河大地を轉じて自己に歸せしめん」と聞かれて、「いかにしてか自己を轉じて山河大地に歸せしめん」と答えたという故事をあげる。これは、自分自身と自然とは融通無碍だという意味である。その融通無碍の境地がさとりの境地だというのである。

とりあえず以上の例をもとにして、「しるべし山色谿聲にあらざれば、拈花も開演せず、得髓も依位せざるべし。谿聲山色の功によりて、大地有同時成道し、見明星悟道する佛あるなり」と結論する。さとりとは、山色谿聲のような自然の働きに接することで得られるというのであろう。

巻の後半部は、例によって、日本人の修行のいい加減さを突く。まず、「この日本國は、海外の遠方なり、人のこころ至愚なり。むかしよりいまだ聖人むまれず、生知むまれず、いはんや學道の實士まれなり」と言ったうえで、それでも、修行を正しく行えばさとりを得られると説く。その修行とは、過去の仏祖たちを見習うことだと道元は説く。しかして次のように言うのである。「願はわれたとひ過去の惡業おほくかさなりて、障道の因ありとも、佛道によりて得道せりし佛、われをあはれみて、業累を解せしめ、學道さはりなからしめ、その功法門、あまねく無盡法界に充滿彌綸せらんあはれみをわれに分布すべし」。仏祖の功徳によって救われることを願うと言っているので、道元にしては珍しく他力を説いているようにも思えるが、そうではなく、さとりの境地は仏祖から直伝されると説いているのである。そのためには相当の修行を要するとするのが、道元の基本的なスタンスである。






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