アイルランド映画「メアリーの総て」 フランケンシュタインはどのように書かれたか 

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2017年のアイルランド映画「メアリーの総て(Mary Shelley)」は、イギリスの最も偉大な詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの妻であり、怪奇小説「フランケンシュタイン」の作者としても知られるメアリー・シェリーの青春時代を描いたものである。本屋の娘として生まれたメアリーが、家族関係のいざこざからスコットランドに送られ、そこでシェリーと出会い、以後シェリーとの複雑な関係を続けるさまが描かれる。映画は、メアリーが「フランケンシュタイン」の出版にこじつけるところまで描き、その後のことは省いてある。したがって、ホッグやバイロンは出てくるが、キーツは出てこない。

この映画は、メアリーの視点に寄り添っているので、シェリーを偶像化するような描き方はしていない。シェリーには女癖の悪いところがあって、たびたびスキャンダルを起こしており、メアリーとの関係もそうしたスキャンダル性を感じさせるのであるが、映画はそんなシェリーの無責任さを率直に描いている。謹厳な人物の口からシェリーは色情狂だと言わせているほどである。バイロンもまた、シェリーに劣らず女癖の悪い男として描いている。

それは、この映画がイギリス人ではなく、アイルランド人によって作られたこととかかわりがあるのだろう。アイルランド人は、アングロサクソンほどシェリーやバイロンを偶像化しない。だいたい、かれらが代表するイギリス・ロマンティシズムの運動は、イギリスの国力がもっとも充実した時期に現れたものであり、そこには露骨な植民地主義意識も働いていた。バイロンがギリシャにこだわったのは、世界の支配者という意識と無縁ではない。アイルランドはそうしたイギリスの植民地主義とは一線を画していたので、その植民地主義の生んだロマンティシズムに毒されてはいないのである。

そのアイルランド人がなぜシェリー夫妻を描く気になったのか。シェリーはアイルランドの脱イギリス運動に深い理解を示していたようだから、それを評価したのかもしれない。だがそれにしては、シェリーに対して厳しい描きかたをしている。

メアリーが「フランケンシュタイン」を書いたのは18歳のときである。彼女は幼いころから怪奇現象に関心を示しており、とくに死んだものが生き返ることに強い関心をもっていた。自分の生んだ娘が死ぬと、どうにかして生き返らせたいという気持ちが強まり、この気持ちが、死者の蘇りであるフランケンシュタインというアイデアを思いつかせたというふうに、この映画は脚色している。





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