申学談義 世阿弥の能楽論

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「申楽談義」は、正確には「世子六十以後申楽談義」という。世阿弥の次男元能が父親の能楽についての説を聞き書きしたものである。本文の奥書に、永享二年(1430)十一月十一日成立とある。その年に、元能は出家して、能楽の世界から去っているので、去るにあたって、父親の説を聞き書きしたものを、贈呈したものであろう。もっとも奥書には、「御一見の後火に焼きて給ふべきものなり」とは書いているが。また、タイトルに世子六十以後とあるが、世阿弥が六十歳になったのは応永二十九年(1422)のことである。だからそれ以後八年間に世阿弥が説いたものを聞き書きしたということになろう。

本文は、三十一か条からなり、それに前文と追記が付せられている。三十一か条の内容は、世阿弥が時につれて話したことの記録で、体系だったものではない。能の決まりごと、演技の上の心得、声と音曲、謡い方のこつ、芸の位、能の作曲、座敷の誂え方、役に応じての報酬の分配、面の形、能楽座の批評などについて、アトランダムに説かれている。これらのうち、能の実践にかかわるものは、能楽者にとって参考とされたであろう。また、さまざまな曲についての言及があるので、後世の能楽研究者にとって貴重な情報源となってきた。

以下、とくに興味深い点について取り上げたい。まず、前文で能の始祖というべき人々について述べている。能自体は、秦河勝にまでさかのぼる古い歴史を持つものだが、興隆したのは世阿弥の父親観阿弥の時代である。その時代に、大和申楽、近江申楽、田楽という三つの大きな流れがあって、それぞれについて、一忠(田楽)、観阿弥(大和申楽)。犬王(近江申楽)、亀阿(大和の新座)という四人の名人が現れた。それら名人の芸風について、かなり詳しく述べているのは、世阿弥がかれらを直接の手本として尊敬していたからであろう。

観阿弥は、一忠を「わが風体の師なり」といって、田楽の得意芸である物まねに長じていた一方、能に曲舞を取り入れた。そのことで、能が従来よりも奥が深くなった。曲舞というのは、能のなかでは、クリ・サシ・クセという形で表現される。クリは、上歌よりも一段高い音で歌うこと、サシは扇をかざして舞働きに移る動作、クセは曲舞の舞であり、従来の能の舞よりも幽玄性に富んでいる。

従来の能の謡い方と曲舞の謡い方とを世阿弥は区別している。従来の謡い方を小唄節といい、曲舞の謡い方を曲舞節という。「曲舞は・・・拍子が本なり」と言っている。

謡い方に関して世阿弥は、日本風の音階にも触れている。日本風の音階は、いわゆるヨナ抜き音階のことを指すが、これは中国起源のもので、中国風の用語を使って音階の解説をしている。五音、四声、呂律といったものである。

この聞き書きの特徴は、世阿弥が個々の具体的な曲を取り上げながら、能楽の心得を述べていることである。中にはすでに廃曲になったものも多いが、それらの記述を通じて、個々の能作品についての貴重な情報を得ることができる。その中で世阿弥作曲のものとして以下の曲名があげられている。
 八幡(弓八幡)、相生(高砂)、養老、老松、塩釜(融)、蟻通、箱崎(廃曲)
 鵜羽(廃曲)、盲打、松風村雨、百万、檜垣女、薩摩守(忠度)、実盛
 頼政、清経、敦盛、高野(高野物狂)、逢坂(廃曲)、恋重荷、佐野船橋(船橋)
 泰山府君
実際には、世阿弥作曲のものはほかにもあり、以上に限定されるものではない。

観阿弥作としては以下の曲名があげられている。
 小町(卒塔婆小町)、自然居士、四位少将(通小町)






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