素顔のアルカージー・マカーロヴィチ ドストエフスキー「未成年」を読む

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小説「未成年」は、アルカージー・マカーロヴィチ・ドルゴルーキーという人物の回想録という形をとっている。その回想の中で、一年ほどの間に起きたことがらが再現されるのだが、その中では、アルカージーの目に映ったさまざまな事態の記述と並んで、アルカージーの自分自身についての反省のようなものも語られる。アルカージー・マカーロヴィッチは単なる語り手ではなく、彼自身の自己意識をもったプレーヤーなのだ。そこでここでは、そのアルカージーの素顔とでもいうべきものを取り上げてみたい。かれの素顔を知ることは、小説の読解を深めるには欠かせないと思われるからだ。

アルカージー・マカーロヴィッチは非常に自意識の強い男である。ドストエフスキーの小説には、たとえば「地下生活者の手記」の語り手のような自意識のかたまりのような人物が多く登場する。アルカージー・マカーロヴィチも、自意識の塊と言ってよいほど、自意識が強い男である。かれのそうした自意識の強さは、生まれ育ちに根差しているようだ。彼は、自分は私生児だと公言しているほど自己の出生に強いコンプレックスをもっており、少年時代に手ひどくいじめられたことで、いじけた性格になってしまった。そうした性格がかれを自意識過剰にしているのである。しかし、かれにはまた素直なところもある。その素直さは、おそらく未成年者としての未熟さからくるのであろう。

かれがこの回想録を書くのは、もうすこしで21歳になろうとする頃である(自分でそう書いている)。その回想録は、執筆時点から一年前の9月を起点としている。その起点の時点でアルカージーはおそらく二十歳にはなっていたと思う。ロシアで未成年といわれる年齢が何歳までをカバーするのか断定できないが、20歳を過ぎていれば、もはや未成年とは言えないのではないか。にもかかわらず、アルカージー・マカーロヴィチは自分を未成年と言っているし、周囲もまたかれをそのように見ている。それには、彼が初めてペテルブルグに出てきたときはまだ未成年だったという事情があるのだろう。彼がペテルブルグに出てきたのは、中学校を卒業して間もなくのことだったというから、二十歳にはなっていなかったと思われる。

ところで、小説の主人公が、遠いところからペテルブルグに出てきて、そこで一波乱起こすという設定は、ドストエフスキー好みのやり方である。「白痴」の主人公ムイシュキン公爵は、はるばるスイスからペテルブルグへやってきて、そこで遠い親戚を手がかりにして複雑な人間関係の中に入っていく。「悪霊」では、二人の主人公スタヴローギンとピョートルがやはり外国からペテルブルグへやってきて一波乱起こす。ピョートルの場合には、父親のヴェルホーヴェンスキーと実質的に初めて会ったというような設定になっている。アルカージーの境遇と似ているのだ。「罪と罰」のラスコーリニコフも、もとはといえば田舎からペテルブルグに出てきたのである。

私生児云々については、アルカージーはヴェルシーロフの子でありながら、他人の姓を名乗っている。その経緯は以下のようなものだ。ヴェルシーロフは地主で多くの農奴を抱えていた。その農奴の一人マカール・イヴァーノヴィチ・ドルゴルーキーが、ソフィアというやはり農奴出の孤児と結婚した。ソフィアはマカールにとって娘のような年齢である。そこへ地主のヴェルシーロフが茶々を入れて、ソフィアをマカールから略奪する。やがてソフィアに男の子が生まれると、その子はマカールの嫡子として登録される。法律上は、マカールとソフィアは依然婚姻関係にあったからである。ヴェルシーロフはその子を、自分の手元にはおかず、里子に出してしまう。その子は、幼年時代の五年間をアンドロニコフ家で過ごし、その後トゥシャールというフランス人が経営する寄宿舎に入れられる。さらにニコライ・セミョーノヴィチの家に下宿しながら、中学校に通う。そして中学校を卒業する頃合いに、実父のヴェルシーロフからペテルブルグに呼ばれるのである。

かれは父親のヴェルシーロフとは会ったことがなく、母親のソフィアとも数回会ったきりだった。そんな事情で再会することには相当のためらいがあったはずだ。父親に対しては、自分を簡単に捨てたことに対する恨みの気持ちがあった。じっさいかれは、父親のヴェルシーロフにその恨みをぶつけ、父子関係を簡単には認めたくないという思いがあった。しかし本人と会ってみると、憎めないばかりか、かえって親しみを感じるのだ。母親や妹のリーザについては、恨みの気持ちはなく、家族としての親愛感があるばかりだ。

以上のような設定で、先ほど言及したような強烈な自意識を抱えたアルカージー・マカーロヴィッチが、世間に乗り出していき、そこでもまれながら成長するはずであった。はずであった、というのは、この小説は並の教養小説とは違って、主人公アルカージーに大した進歩の様子が見えないのである。回想録を書いた時点では、かれはすでに二十歳を超えており、したがって立派な大人になっているわけだが、まだ自分を未成年とみなしている始末なのであるし、その言い分からは、かれを成熟した大人とみなすには、まだ何かが欠けていると感じさせられるのである。

アルカージーは、非常に自意識の強い青年ではあるが、自分から積極的にうって出るタイプの人間ではない。基本的には受け身のタイプなのである。自分で自分の運命を切りひらいていく能力は持たず、周囲の環境とか出来する事件に受動的に適応するという生き方しかできない。それについては、本人も自覚しているようで、出来事の不本意な展開にじりじりとするばかりなのである。

この回想の中では、アルカージーの体験した様々な出来事が語られる。実の父親ヴェルシーロフとの親子関係、ヴェルシーロフの意向を受けた形で秘書となった老侯爵とその娘カテリーナ・ニコラーエヴナとの関係。カテリーナにはアルカージーは恋心を抱く。そのカテリーナは、ある将軍の未亡人であって、アルカージーよりずっと年上なのである。アルカージーの腹違いの姉アンナ・アンドレーエヴナとカテリーナとの間には確執がある。その確執は、老侯爵の遺産をめぐる争いに根差している。その争いにアルカージーも巻き込まれる、遺産の配分を決定的に左右するような文書を、アルカージーは持ってしまうのである。この小説のメーンプロットは、その遺産をめぐるカテリーナ・ニコラーエヴナとアンナ・アンドレーエヴナの確執を描くことにあるのだ。それに付随して、ヴェルシーロフとカテリーナとの不思議な愛憎関係とか、オーリャという不幸な女のこととか、ワーシンとその仲間の自由思想家たちとか、アルカージーの幼馴染で小悪党のランベルトとか、ワーシンの伯父で、これも小悪党のステベリコフといった連中が出てくる。この小説には実に多くの人物が出てきて、それぞれ勝手な振舞いをするのであるが、その振舞いぶりはアルカージーの意識に濾過されたうえで描写されるので、客観的な展望にはならず、しかも尻切れトンボになったりして、いささか未整理な印象を与える。だがそれは、この小説が一人称の体裁をとっていることからくるのであって、ドストエフスキーはそうした未整理な印象を織り込み済みにして、この小説を書いたのだと思う。






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