ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」 新しい哲学の枠組

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「意味の論理学」は、「差異と反復」とともに、ドゥルーズの初期の業績の集大成というべきものである。彼は哲学のキャリアを始めた当初から、西洋伝統哲学(形而上学と呼ばれる)を解体して、その上で全く新しい思想を展開してみせようという意気込みをもっていたように見える。ほぼ同時代のデリダがやはり同じような意気込みをもっていて、それを哲学の脱構築と呼んだ。ドゥルーズは、脱構築という言葉は使わなかったが、西洋の伝統哲学を解体しようという意志の強さはデリダに劣らなかったといえる。しかも、デリダが脱構築した後に、伝統的な哲学にかわる新たな思想の枠組を提示することに成功したとはいえなかったことに比べれば、ドゥルーズには伝統哲学にかわる選択肢の一つを提示できたと自負できる理由があるのではないか。ドゥルーズにとっては、「差異と反復」は西洋の伝統哲学の解体の試みであり、「意味の論理学」は伝統哲学=形而上学に代わる新たな思想の枠組を提示する試みと言えるのではないか。

「差異と反復」において、ドゥルーズはニーチェに依拠しながら、形而上学の解体というべき試みを遂行した。ニーチェの哲学史上の意義は、西洋の伝統的な哲学を基礎づけているのはプラトンとキリスト教だと喝破したうえで、プラトンの形而上学とキリスト教の坊主の道徳を徹底的に批判することにあった。そうすることで、西洋伝統哲学の欺瞞的でみじめな性格を拒絶し、そのうえで、人間性を一段の高みに引き上げることをめざした。ニーチェが目指したものは、奴隷の道徳を破棄して、超人の自由な振舞いを人類の模範とするということだった。人類というものは、奴隷が寄り集まってもなんらの進化もない。人類に進化をもたらすのは一握りの超人である。その超人が人類のレベルを一段と引き上げる。要するにエリート主義をニーチェは打ち出したわけである。ドゥルーズはそんなニーチェに依拠しながら、形而上学の解体という目的のためにはニーチェの概念セットを最大限動員しながら、新たな哲学の提示という点では、かならずしもニーチェに引きずられず、自分自身のユニークな思想を打ち出したかった。「意味の論理学」には、ニーチェの影はほとんど見られない。ドゥルーズ独自の思想が躍動しているといった感がある。

そんなわけだから、「差異と反復」と「意味の論理学」は、ほぼ同じ時期に構想・執筆されたにかかわらず、全く異なった体裁を呈している。「差異と反復」は、西洋哲学の批判が目的であるから、きわめて論理的でかつ構成的である。それに対して「意味の論理学」は、ドゥルーズなりに考えた全く新たな思想の枠組を提示することを目的としているから、スタイルの点でも語り方の点でも、従来の枠組に縛られず、きわめてユニークなものである。あまりユニークなので、ドゥルーズがいったい何を言いたいのか、読みながらときに途方にくれることもあるほどだ。

この「意味の論理学」という書物は、色々な意味でユニークなのだが、ここでは二つのユニークさを指摘したい。一つは書物の構成のユニークさ、もうひとつは語り口のユニークさである。どちらも西洋哲学の伝統から大きく離れるものである。

まず、書物の構成のユニークさ。この書物は、34のセリーで構成されている。セリーという概念は、「差異と反復」の中でも出ていたが、ドゥルーズは明確に定義していたわけではないし、この書物でも、明確に定義したうえで使っているわけではない。そこで読者は、事後的にその意味を推測するしかないのであるが、次のようなイメージになるのではないか。まず、セリーとは集合の一種であること。その集合の中で、集合の要素は二項対立のような関係ではなく、もっと開かれた関係にある。また、複数のセリー同士の間には、平行あるいは共鳴といった関係が認められる。その共鳴が起こりえるのは、複数のセリーがそれぞれ同じような性格の要素からなっているからだ。われわれがなにか事柄を説明しようとするとき、いくつかのセリーを動員して説明することになる。Aというセリーを動員して説明してもいいし、Bというセリーを動員して説明してもいい。セリーが異なれば説明の仕方にニュアンスの相違は生まれるが、セリー相互の間には矛盾・対立の関係はないので、セリー同士が排除しあうということはない。したがってどんなセリーを用いて説明しても、説明相互の間で矛盾・対立が生じることはない。

これを要するに、セリーとは、世界を説明するための概念セットのようなものと考えてさしつかえないのではないか。世界は一面的な見方で説明の尽きるものではない。さまざまな説明の仕方がある。その様々な説明を可能にするのがさまざまな概念セットとしてのセリーなのである。セリー相互の間に、上下の階層関係はなく、むしろ同じレベルでかかわりあっている。ある一つのセリーが別のセリーの根拠となったり結果となったりすることはない。セリーはそれぞれ同格なのだ。要するに世界を説明するための切り口のようなもので、したがって、どのセリーから始めるかは任意ということになる。そんなセリーの性格からして、この書物はどのセリーから読み始めてもいいのである。

さまざまなセリーがある。それぞれのセリーが、世界を解釈・説明するための概念枠組のようなものを含んでいる。枠組が異なれば世界は異なった流儀で解釈・説明されるが、それら説明相互には矛盾・対立の関係は生ぜず、説明の切り口が変わるだけである。だが説明が積み重なることで、世界は多面的に見えてくる。

この書物の二つ目の特徴としての語り口のユニークさ。語り口は文体ということだが、この書物の文体は極めて難解である。読み切るのにかなりの忍耐を強いられる。これは翻訳の問題ではなく、ドゥルーズがわざとそうしているように思える。その難解さを体感してもらうために、第九のセリーから次のような文章を書きだしてみたい。「観念的なできごととは何か。それはひとつの特異性である。或いはむしろ、数学的曲線、物理的事物の状態、心理的・精神的な人間の特徴となっている特異性・特異点の集合である。それは、劣点・変曲点などであり、頸部・結節・焦点・中心であり、融点・氷点・沸点などであり、涙と歓喜、病気と健康、希望と不安の点であり、いわゆる感覚点である」(岡田宏、宇波彰訳)。ひとはこういう文章を読んで、なにか明確なイメージを想起できるだろうか。万事がこの調子なのである。ドゥルーズとしては、新しい哲学を語るについて、古い言葉を使うわけにはいかないと言うことなのだろうが、したがって論理的であることにはこだわらないということなのだろうが、論理はコミュニメーションの条件なのであって、あまりにも論理を無視した物言いは、読者とのコミュニケーションを阻むことになるのではないか。とにかくこの書物は、読者に極端な緊張を強いるのである。






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