諸悪莫作 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十一は「諸悪莫作」の巻。七仏通戒の偈にある「諸惡莫作、衆善奉行、自淨其意、是諸佛教(惡を作すこと莫れ、衆善奉行すべし、自ら其の意を淨む、是れ諸佛の教なり)についての解釈を示したもの。これは普通には、「諸悪をなすなかれ、衆禅を行いなさい」というふうに読めるが、じつはそんなに単純なものではない、もっと深い意味があると説く。じっさい、白居易はそのように解釈して厳しく批判された、と言って、この言葉の深い意味を説くのである。

議論の流れとしては、まず「諸惡莫作」について説き、次に「衆善奉行」について説き、さらに「自淨其意」について説く。そのうえで、白居易による浅はかな解釈を批判する。

まず、諸悪莫作。これを、諸悪をなすなかれと解釈してはならぬ。なすところの悪などそもそも存在しないのである。どういうことか。「いまいふところの惡者、善性・惡性・無記性のなかに惡性あり。その性これ無生なり。善性・無記性等もまた無生なり、無漏なり、實相なりといふとも、この三性の箇裡に、許多般の法あり」。三性とは諸物の性質をいい、存在界を総称する言葉だが、その存在界は無生であるという。無生とは本来あるものではないということである。つまり三性にはそもそも悪はないというのである。

にもかかわらず「諸悪莫作」という言葉が仏教にとって意義を持つのは、仏の教えの声が「諸悪莫作」と聞こえてくるからである。この言葉は仏の教えを現したものなのである。

諸悪は、あるものではないから、作ることもできない。だから「莫作」という言葉にも意味がない。にもかかわらず、「諸悪莫作」という言葉に意義があるのは、仏の教えの声が「諸悪莫作」と聞こえてくるからである。

諸悪はあるのではないから、因果関係にも左右されない。とはいえ、諸悪はないのでもない。ただ「莫作」なのである。これを人間存在に類推すれば、「自己は有にあらず無にあらず、莫作なり」ということになる。これは金剛経のいうところの即非の論理にそった考え方であろう。

次に「衆善奉行」。諸悪が三性の悪性だったように、衆善は三性の善性である。この衆善は「さきより現成して行人をまつことなし」という。つまり善そのものとしてあるわけではない。とはいえ、まったくないわけでもない。「万善は無象なりといへども、作善のところに計会すること、磁鉄よりも速疾なり」なのである。

衆善は、あるでもない、ないでもない。そのことを次のように言う。「衆善、有無、色空等にあらず、ただ奉行のみなり。いづれのところの現成、いづれの時の現成も、かならず奉行なり。この奉行にかならず衆善の現成あり。奉行の現成、これ公案なりといふとも、生滅にあらず、因にあらず。奉行の入・住・出等も又かくのごとし。衆善のなかの一善すでに奉行するところに、盡法・全身・眞實地等、ともに奉行せらるるなり」。つまり衆善は即奉行なのである。この言い方は、諸悪が即莫作だとする考えと通じ合っている。

ついで、「自淨其意」。これについては、「自淨其意といふは、莫作の自なり、莫作の淨なり。自の其なり、自の意なり。莫作の其なり、莫作の意なり。奉行の意なり、奉行の淨なり、奉行の其なり、奉行の自なり。かるがゆゑに是諸佛教といふなり」と説かれる。人間が、自らその意を浄めるというのではなく、莫作と奉行が人間をそのように仕向けるのである、という意味であろう。

最後に、仏教をめぐる白居易批判。白居易は杭州の刺史だったときに、道林禅師に仏教の大意を問うた。道林禅師が「諸惡莫作、衆善奉行」と答えると、そんなことなら三歳の子供でも言えると言った。すると道林禅師は、三歳の子供がたとえ言えるとしても、八十歳の老人にはなすことができぬ、と言った。これをふまえて、白居易は仏教をまったくわかっていないと批判するのである。その批判を、道林禅師は次のように表現した。「孩兒の道得はなんぢに一任す、しかあれども孩兒に一任せず。老翁の行不得はなんぢに一任す、しかあれども老翁に一任せず」。これは、こどもの言いうることはお前の思うとおりかもしれぬが、しかし子供の正体はお前が考えるようなものではない、また、老人の行不得はお前の思うとおりだとしても、老人の正体はお前が考えるようなものではない、という意味であろう。






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