ニュージーランド映画「ピアノ・レッスン」:女性の受難

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1993年のニュージーランド映画「ピアノ・レッスン(The Piano ジェーン・カンピオン監督)」は、ニュージーランドの開拓地を舞台に、ある女性の愛と悲しみを描いた作品。これを小生は、もう30年近くも前に劇場で見たのだったが、その折には、手の込んだ恋愛映画くらいにしか受け取らなかった。異常な恋愛ではあったが、また理解しがたい結末だったが、男女の恋愛がテーマと言えたからだ。

近頃DVDで見て、違った受け止め方をした。これは、人身売買の犠牲になった女性の受難の物語ではないかと感じたのだ。スコットランドで、小さな娘と暮らしていた女性が、ニュージーラドの僻地に売られていく。一応、現地に住む男に嫁入りするという設定になっているが、事実上かれの奴隷になるのである。奴隷というのは、意に染まぬ結婚を強いられ、男から性的な暴力を振るわれるからだ。一方女は、別の男、現地のマオリ族の男と肉体関係を結ぶまでに至る。その関係も当初は、失ったピアノを取り戻すために、自分を売るということから始まるのだ。「夫」との関係も、「男」との関係も、主人と奴隷の関係である。主人・奴隷の関係については、ヘーゲルの議論が有名だが、この映画は、ヘーゲルとそれを受け継いだサルトルの主人・奴隷の議論を意識しているように見える。

女性は、古いピアノを唯一の生きがいにしており、娘と共に、そのピアノも伴ってニュージーランドまでやってくるのだが、「夫」がそのピアノを現地の「男」に売ってしまう。ピアノを失った女は、なんとかそれを取り戻したいと思う。とりあえずは、「夫」の了解のもとに、「男」のもとに通い、ピアノのレッスンをさずけることになる。「男」はその関係を利用して、女を性的に搾取しようとする。女はだから、その男との関係では完全に主人と奴隷の関係にあるわけだ。だが、どういうわけか、男は女を愛してしまい、自分のしていることを後悔する。ヘーゲル流にいうと、主人は奴隷に認められているかぎり主人でありうるのであり、奴隷に受け入れられないでは、単なる暴君に過ぎない。つまり主人と奴隷の関係は、一方的なものではなく、相互依存的なものなのだ。そこで「男」は主人であることをやめ、一人の人間として彼女に向き合いたいと考えるのだ。

一方、「夫」のほうは、最後まで、主人・奴隷の関係でしか彼女にかかわることができない。だから女性の側が、自分を人間として見ないことを知ると、主人でいることもできなくなる。「夫」は侮辱されたと感じて、女の指を落とした挙句、「男」に与えるのである。

映画は、女が次第に「男」に対して心を開いていく過程を丁寧に描く。なぜ彼女がマオリの男を愛するようになったか、それはなかなか微妙なことのように思える。まず下半身が反応し、それが上半身を支配するにいたったとも受け取れる。

映画の中では「男」はじめ多くの現地人が出てくるが、「男」を含め、多くを白人が演じている。白人の皮膚を黒く塗って黒人を演じさせるのと同じで、無神経さを感じさせられる。

壊れたピアノと一緒に、女が海に沈んでいくシーンは、この映画のクライマックスというべきもので、それなりに印象深いが、なぜ彼女がそういう行動をとったか、これもわかりにくい。彼女は唖者ということになっており、一切言葉を話さないので、その内面は外部からはうかがい知れないのである。






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