ヴェルシーロフの狂気 ドストエフスキー「未成年」を読む

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アンドレイ・ペトローヴィチ・ヴェルシーロフは非常に謎の多い人物である。そのためか、この小説では語り手のアルカージーについで強い存在感を感じさせるのであるが、その割りに決定的な意義をもつような行動はしていない。それはおそらく、この小説がアルカージーの回想という形をとっており、したがってアルカージーの意識を通過したことがらしか書かれていないという事情と関連するのであろう。かれはアルカージーの実の父親であり、アルカージーともっとも密接な関係にあるので、当然もっとも多く言及される。そのアルカージーにはヴェルシーロフは謎の多い人物に見えている。そこで当然のこととして、アルカージーは読者にとっても謎の多い人物というふうに映るわけである。

この小説のメーンテーマは、老侯爵をめぐるカテリーナ・ニコラーエヴナとアンナ・アンドレーエヴナの確執である。その二人の女性にヴェルシーロフは深いかかわりをもっている。カテリーナとは強烈な愛憎で結ばれ、アンナは実の娘である。その二人に対してヴェルシーロフは、利己的な態度に終始する。利己的といえば、かれは実の息子であるアルカージーに対しても、なんら父親らしい態度をとることがなかったし、また、成長したアルカージーに対してもあまり父親らしい振る舞いはしない。そんな父親にアルカージーは不思議な感情を抱くのである。

ヴェルシーロフは、この小説の中でさまざまな役割を演じ、そのいずれにおいても不可解な行動をとっている。一番不可解なのは、アルカージーに対する行動である。アルカージーは、ヴェルシーロフがソフィアに産ませた子であるにかかわらず、自分では認知せず、ソフィアの法律上の夫マカール・イワーノヴィチ・ドルゴーキーの嫡子として届け出る。その後アルカージーを里子に出し、成長するまで一度も会うことがなかった。アルカージーが中学校を卒業した時点で初めて自分の家に呼び寄せたのである。生まれて以来一度も会うことがなかった息子を突然呼び寄せたのはなぜか、という疑問がまずわくであろう。しかもかれは、息子のアルカージーに対して、父親というより親しい友人のような振舞いをするのである。

父親ヴェルシーロフの自分に対する振舞いに非常に不可解なものがあると感じたアルカージーは、ヴェルシーロフには何か魂胆があって、そのために自分を利用しているのではないかと勘ぐるほどである。事態の進行にしたがって、老侯爵の遺産をめぐりどろどろとした事情が明らかになるにつけて、それにヴェルシーロフも一枚かんでいると感じたアルカージーは、ヴェルシーロフは自分を老侯爵を監視するスパイ役として利用しているのではないかと勘ぐる。アルカージーは、ペテルブルグに来た早々、老侯爵の秘書のような仕事をあてがわれたのである。それは考えすぎであったが、そう思っても不思議でないくらい、ヴェルシーロフの振舞いには不自然な点があった。そのヴェルシーロフをアルカージーは、実の父親であるにかかわらず、単にヴェルシーロフと呼び、一線を画す態度をとり続けるのである。

ヴェルシーロフには、不可解な過去の行動がいくつかあった。かれはソフィアを自分のものにした後、彼女を連れてヨーロッパへ向かったのだったが、途中リガに彼女を残して、単身でヨーロッパに旅行した。そしてソフィアを貧しい境遇のなかに放置したのである。だが、ヴェルシーロフに対するソフィアの気持ちはゆるがなかった。彼女はヴェルシーロフを本当に愛していたのか、それは最後まで曖昧なままである。ヴェルシーロフが彼女を真に愛していたのかも曖昧である。ヴェルシーロフは、ヨーロッパでカテリーナ・イヴァーノヴナと出会い、彼女に対して恋心を抱くようになった。カテリーナは未亡人になったばかりで、夫の残した義理の娘を手元においていた。ヴェルシーロフはその娘と結婚する決意をしたのであるが、そのこと自体が異常なうえに、かれはその決意を、わざわざリガに住んでいるソフィアに知らせに出かけ、ソフィアから同意の答えを引き出したのだった。その娘というのが、知的障害者であり、出産直後に死んだということになっている。その子の父親は、後にセリョージャ公爵だとわかるのだが、ヴェルシーロフは自分の子として引き取った。それも不可解な行動である。

セリョージャ公爵とは、ヴェルシーロフは強い因縁があった。さる人物の遺産相続をめぐりライバルの関係にあったこと、また、セリョージャ公爵から受けた侮辱をヴェルシーロフが耐え忍んだという事件もあった。アルカージーはヴェルシーロフの息子として、その侮辱を理由にセリョージャ公爵に決闘を申し出るつもりになったくらいである。遺産相続の争いについては、ヴェルシーロフが訴訟に勝ち自分が相続する権利を得た。ところがヴェルシーロフは、その権利を放棄して、セリョージャ公爵に相続させる。これもまた不可解な行動である。

もっとも不可解なのは、カテリーナ・ニコラーエヴナに対するヴェルシーロフの振舞である。かれがカテリーナを愛しているのは間違いない。しかしそれをストレートに表現することはしない。むしろ彼女を侮辱する手紙を送るようなことをする。しかし直接面会すると、彼女への愛を打ち明けたりする。非常にわかりにくい行動をとるのである。この小説のクライマックスは、カテリーナを銃殺しようとしたヴェルシーロフが、いったんは彼女の頭に銃を宛てたうえで、思い直して自分を撃つ場面であるが、なぜそんなことをしたのか、非常に不可解なのである。その不可解さは、語り手のアルカージーの認識が曖昧なことに根差しているとも受け取れる。かれは、ヴェルシーロフの行動が異常なのは、かれの内部にもう一人別の人物が住みついており、その人物がヴェルシーロフに異常な行動をとらせるのだろうと思うようになる。つまり、アルカージーの目には、ヴェルシーロフは分裂病の患者として映るようになったのである。

ドストエフスキーの小説には、異常な行動をする人物が多数出てくる。そうした人物は、だいたいが分裂病気質を感じさせる(「白痴」のムイシュキンは癲癇だが)。この小説の中のヴェルシーロフも、そうした人物像につながるのであろう。ヴェルシーロフ自身、アルカージーとの対話のなかで、自分の内部にはもうひとり別の人物が住みついていると語っている。アルカージーとの数多い対話の中でヴェルシーロフは時に自分の思想を語ることもある。たいして明確な思想ではないが、ロシアの現実に対して冷笑的な視線が感じられるようなものである。






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