セリョージャ侯爵とヴェルシーロフ親子 ドストエフスキー「未成年」を読む

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セリョージャ公爵はヴェルシーロフ親子と深い因縁がある。ヴェルシーロフとは第三者の遺産相続権をめぐって争ったほか、個人的な怨恨もある。アルカージーとはともに放蕩の限りをつくした。またリーザとは肉体関係を持ち、妊娠させてもいる。ヴェルシーロフ親子はこの小説のカギとなる人物像なので、そのいずれとも深い因縁があるセリョージャ公爵は、奥行きのある複雑な人物像であってもよいのだが、どうも薄っぺらな印象をぬぐえない。それは、一人称で個人的な体験を語るというこの小説の構成上の制約かもしれないが、それにしても中途半端な人物だという印象がぬぐえないのである。

セリョージャ公爵がこの小説の中で登場するのは、アルカージーが父親のヴェルシーロフと初めて対面する場面においてである。その場面でヴェルシーロフは、遺産をめぐってセリョーザと争っていた訴訟に勝ったと言う。つまり、自分自身が小説の中に進んで現れるのではなく、他人によって言及されるという形で現れるのである。現れるのは彼の名前だけで、彼自身が現れるわけではない。つまり登場の仕方からして重みを感じさせないのだ。

セリョージャとヴェルシーロフとの個人的な怨恨とは、セリョージャがヴェルシーロフを侮辱したというものだ。その侮辱をヴェルシーロフは問題とせず、普通なら決闘沙汰になるところを、穏便にすませた。そのことで、臆病者呼ばわりをされた。アルカージーはそれを屈辱として受け取り、息子の自分が父親にかわって汚辱をすすぎたいと考える。じっさいアルカージーは、セリョージャに決闘する意思を伝えるのであるが、ロシアでは未成年者が決闘するという風習はないので、セリョージャに一蹴されるのである。

そんなセリョージャに対してヴェルシーロフは不可解な行動をとる。自分の権利になった遺産を、すっかりセリョージャに譲ってしまうのだ。どういう理由かは明かされない。語り手の意識のなかで、それについて明瞭なイメージがないからだ。語り手のアルカージーは、父親が遺残を譲ったことを、度量の広い性格のあらわれだとして喜ぶあまり、なぜヴェルシーロフがそんなことをしたのか、考えようとしないのである。

セリョージャのほうでは、譲られた遺産のうち三分の一をヴェルシーロフに返す意向を示す。ヴェルシーロフ自身はそれを受け取るつもりはないのだが、息子のアルカージーはその金をあてこんで、セリョージャから無心する。かれはその金を使って豪勢な暮らしをするばかりか、賭博に夢中になるのだ。かれが賭博に足を突っ込んだのはセリョージャに影響されたからだということになっている。セリョージャ自身は意思の弱い賭博中毒者なのである。かれは遺産に相当する分を使い果たしたばかりか、それでも足りずに、ステベリコフといういかがわしい人物から多額の借金をしている。その借金を盾に取られて、自分の身の破滅を呼び込むのである。

アルカージーがセリョージャから金をせびっているのは、父親の権利を代行して行使しているつもりなのだが、ヴェルシーロフは自分にはそんな権利はないといって、アルカージーをいさめる。しかしアルカージーはそれをまともに受け止めることがない。つまり恥じないのである。これは、いくら未成年といっても、アルカージーに不道徳な性格があることを意味している。

アルカージーはセリョーザと意気投合する。金づるだという理由からだけではなく、かれの人となりを気に入ってしまったのだ。一方セリョージャのほうは、別にアルカージーが気に入っているわけではない。彼としては、一つにはアルカージーの父親ヴェルシーロフとの関係に考慮を払わねばならないし、また、アルカージーの妹リーザと肉体関係を結んでいることもあって、アルカージーを大事に扱うべき理由があったのだ。アルカージーにはそんな事情はわからない。ただセリョージャが純粋に自分を大事にしてくれていると思い込んでいる。そこもまた未成年らしいのである。

セリョージャには軽率なところがある。その軽率さが災いして身を亡ぼすのである。かれはステベリコフから金を借りるなどして、腐れ縁のような関係に陥っていたのだが、その腐れ縁から、ステベリコフの犯罪に巻き込まれる。貨幣偽造の片棒を担がされるのだ。かれはその罪をあっさりと官憲に告白する。そして未決の状態で監獄に留置されている間に、脳炎を発症して死ぬのである。

いかにもセリョージャらしい死に方である。この男は、小説の中では、つまり語り手の語るところでは、堅固な意思を持つことなく、その場の雰囲気に流されてしまう軽率で浅はかな人物といったイメージを感じさせる。その割には結構重要な役回りを演じているのである。ドストエフスキーはなぜ、こんな中途半端な人物像をあえてこの小説の中に持ち込んだのか。セリョージャがこの小説の中で果たす役割は、別に彼一人が背負いこむ必要はない。別々の人物に担わせて済む話だ。にもかかわらずあえてセリョージャ一人にそれをすべて担わせている。その割には、セリョージャという人物には深みはない。かえって役の重みにひしがれているといった感じを与える。そんな男を愛してしまったリーザにも、愛の深さは感じられない。ゆきずりの恋を楽しんだというような感じである。実際彼女はセリョージャには執着する様子を見せず、妊娠した子を出産して愛することもないのである。

アルカージーにしても、リーザにしても、ヴェルシーロフの子供たちは、どこか抜けているところがある。母親の違う子どもアンナとその兄も、どこか常軌を逸脱した部分を感じさせる。そんな親子と関わり合いになるセリョージャ公爵にも、どこか異様なところを持たせねば釣り合いが取れないと思って、ドストエフスキーはかれを半人前の人間像として描いたのだろうか。






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