新樂府 序:白楽天を読む

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「資治通鑑」元和2年11月の条に、「盩厔尉、集賢校理白居易、楽府及び詩百篇を作り、時事を規諷すること禁中に流聞す、上見て之を悦び、召して翰林に入れしめ学士となす」とある。官僚生活を始めたばかりの白楽天にとって、「時事を規諷する」詩すなわち風諭詩は、もっとも力を入れたものであった。これに比べれば「長恨歌」のようなものは、単なる筆のすさびに過ぎないと、自らに言い聞かせていたのでもあったが、世人が風諭詩より長恨歌のほうを重んじたのは、白居易にとっては皮肉なことではあった。

ともあれ、そうした風諭詩のうちまず50篇を集めて新楽府にまとめた。新楽府とは楽府を手本にしたものであって、楽府が音楽に合わせて歌うことを本領としていたように、新楽府も歌い演じられることを前提にして作られた。したがってどの作品もリズミカルにできている。

風諭の意を楽府の形であらわすのは、奇異に聞こえるかもしれない。しかし孔子もまた詩三百篇を歌うことを前提にして作った。中国人にとって歌と風諭とは共存する事柄だったのである。

新楽府50篇は、いずれも風諭すなわち社会批判をその内実としているが、白楽天の批判の度合いにはいささか手心が加わっている、というのが文学史上の常識である。批判が過ぎれば、官僚としての前途に暗雲がさす。だから手心を加えたということなのだろうが、手心が過ぎると文学の志に反することにもなるし、文学作品としてもつまらぬものとなる。それ故白楽天は、風諭と文学と世間体との三者をどうすれば調和させられるか、そのことに気を配りながら、これらの風諭詩を作ったに違いない。


新樂府 序(壺齋散人注)
  
  序曰、凡九千二百五十二言,斷為五十篇。
  篇無定句, 句無定字,系于意,不系于文。
  首句標其目,卒章顯其志,詩三百之義也。
  其辭質而徑,欲見之者易諭也。其言直而切,欲聞之者深誡也。
  其事核而實,使采之者傳信也。其体順而肆,可以播于樂章歌曲也。
  總而言之,為君、為臣、為民、為物、為事而作,不為文而作也

序に曰く、凡そ九千二百五十二言,斷ちて五十篇と為す
篇に定句無く, 句に定字無し,意に系(か)けて,文に系けず。
首句其の目を標し,卒章其の志を顯にするは,詩三百の義なり。
其の辭質にして徑なるは,之を見る者の諭り易からんことを欲するなり。
其の言直にして切なるは,之を聞く者の深く誡めんことを欲するなり。
其の事核にして實なるは,之を采る者をして信を傳へしめんとてなり
其の体順にして肆なるは,以て樂章歌曲に播すべし。
總て之を言へば,君が為、臣が為、民が為、物のため、事のためにして作る,
文の為にして作らざるなり

序に曰く、ここに九千二百五十二言、これを分けて五十篇とした、
一篇に決まった数の句はなく、句に決まった数の字はなく、内容を重んじて、修辞を重んじない
最初の句に題名をしるし、末句に趣旨をしるしたのは、詩経にならったもの、
表現が質素で直接的なのは、見る者にわかりやすくするため
言葉が率直で切実なのは、聞くものが深く自戒してもらいたいため
事柄が明確で実直なのは、これを採集する人が後世に伝えやすくするため
体裁が素直で音楽的なのは、歌いやすく演奏しやすくするため
まとめていえば、君のため、臣のため、民のため、物のため、事のために作ったのであり、文のために作ったのではない







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