村=国家=小宇宙:大江健三郎「同時代ゲーム」

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小説の語り手が、双子の妹に向けた手紙の中で書いたのは、かれが「われわれの土地」と呼ぶ「村=国家=小宇宙」の神話と歴史だったわけだが、何故かれがそれを「神話と歴史」というふうに、二つの言葉を並べて表現したのか。かれとしては、自分が語る物語には、「われわれの土地」の歴史というには収まらないような、神話的な要素が色濃く含まれていると感じたからなのだろう。その神話的な部分には、人間の常識を以ては理解できないようなものがあり、それゆえ神話という言葉を語り手は用いざるを得なかったのだと思う。その神話の部分では、不死身の存在である壊す人と、百年以上生き延びて巨人となった開拓者たちの活躍があった。

要するに、語り手が「われわれの土地」と呼ぶ村=国家=小宇宙の歴史には、神話的な時代と現世的な時代とがある。それは、大日本帝国の歴史が、神代と人代から成り立っていることのアナロジーかもしれない。大日本帝国の神代においても、天皇の祖先が人間の限界を超越した働きぶりを見せるわけだし、また、人代になっても、歴代の天皇は百歳を超えて生き続けた。それとのアナロジーにおいて、村=国家=小宇宙も、その創建の時代には、人間の限界を超えた働きぶりをする壊す人を始め、巨人的な人々が活躍するのである。

大日本帝国の祖先は高天原から降臨して、葦原の中つ国を支配するわけだが、村=国家=小宇宙の祖先たちは、封建時代の藩権力から逃れて、川を遡行した山の奥に自分たちの小宇宙を創建した。それはおそらく、封建時代に頻発した逃散の、ひとつの成功した例なのであろう。逃散した百姓たちが、日本の国の一角に、支配権力から解放された、自由な別天地を作る。その別天地で、かれらは現実世界における秩序とは全く異なる秩序を打ち立て、その秩序のなかで、いわば自治を謳歌する。その自治のあり方は、小説の語る所からは、ある種の原始共産制を思わせる。別天地を開いた祖先たちは、互いに平等で、共産的な生き方を選んだのである。この共産制は、たえず私有財産への誘惑に脅かされるが、すくなくとも創建時代から間もなくの間、といっても百年くらいのスパンの長さだが、創建時代の人々がまだ生きている間は、この原始共産制の理念が共有されていたのである。しかし創建者たちが百歳を超えて、知力と体力が衰えると、かれらが担っていた原始共産制の理念も色あせ、村=国家=小宇宙は私有財産を基礎とした社会に転化してゆく。

しかし、それでもかれらは、外部からの力に対しては一致団結して立ち向かう精神を持ち続けていた。その精神が発揮されたのは二度あるということになっている。一度目は、幕末期に、隣村で起こった一揆騒動に巻き込まれ、権力と立ち向かわねばならぬ事態に陥った時であり、二度目は、太平洋戦争の敗戦直前に、大日本帝国の軍隊と直面した時である。その二度目の事態を小説の語り手は、「武勇赫赫たる五十日戦争」と呼んでいる。この戦争を通じて、村=国家=小宇宙は権力によってからめとられ、自治の息の根を止められてしまうのだ。

幕末の騒動の際には、亀井銘助という人物が活躍する。この人物は、隣村から一揆が押し寄せてきた際に、藩権力の側に立って一揆を鎮圧するのに手を貸し、そのことで藩権力から評価されもしたのだったが、その後、村=国家=小宇宙の人々が藩の過酷な収奪に反抗する一揆を起こしたときには、村の側に立って藩権力に反抗し、そのことで藩から捉えられて獄死する。かれが藩権力と戦うに際してよりどころにしたのは、天皇の権威であった。かれは、村=国家=小宇宙としての自分たちの村は、往古から天皇直属の領地だったのであり、俗権力の支配の及ばない地域なのだという理屈を振り回して、藩権力の支配をはねのけようとしたのだった。このように、天皇の権威によりかかって、自分たちの存在意義を認めさせようとするのは、亀井銘助に限らず、さまざまな人々が利用した手口だった。天皇制は日本においては、打ちでの小づちのような機能も果たしていたのである。

藩権力にからめとられた村=国家=小宇宙は、明治以降には、大日本帝国の一部に組み入れられる。だが、村=国家=小宇宙は、全面的に大日本帝国に屈服したのではなかった。かれらは戸籍を操作することで、住民の半分が大日本帝国の臣民になる一方、他の半分は大日本帝国の権力から逃れる工夫をしたのである。その工夫とは、ひとりの戸籍を二人で共有することだった。そのことで、戸籍上は実際の半分しか存在しないこととなり、租税公課の負担や兵役の義務から、村の半分が解放されたわけである。

そのからくりに大日本帝国が気づいたときに、村=宇宙=小宇宙は、再び権力との壮絶な戦いに直面する。大日本帝国は、二度にわたり中隊規模の軍隊を派遣し、村=国家=小宇宙の制圧に乗り出した。一度目の出動の際には、村=国家=小宇宙は帝国軍隊を全滅させたのであるが、二度目の出動の際には、指揮官たる「無名中尉」の果敢な働きもあって、村=国家=小宇宙はついに全面降伏する。その際に、戸籍上は存在しないとされてきた人々は虐殺されてしまうのである。

亀井銘助の場合にも、五十日戦争の場合にも、壊す人の働きが目立った。亀井銘助の場合には、壊す人その人が銘助に乗り移ったと思われているし、五十日戦争の場合には、壊す人は村=国家=小宇宙の人々の夢を通じて、かれらに戦い方を教え、励ましたばかりか、「無名中尉」の夢のなかにも現われ、敵を攪乱したということになっている。その壊す人は、語り手の双子の妹によって、墓場からこの世界へと復活させられ、いまや犬ほどの大きさになって、語り手を励ましているのである。

五十日戦争において、村=国家=小宇宙が屈服したのは、大日本帝国軍がかれらの宇宙そのものである森を焼き払おうとしたことに対して、自分たちの命をかけてでも森を守ろうとしたからだった。かれらは、自分たちの命が奪われることには耐えたのであるが、森の命が奪われることは忍び難かったのである。何故なら、かれらは森によって育まれた、森の子どものような存在だったからである。

ともあれ、この五十日戦争における、村=国家=小宇宙の人々の戦いぶりはまさに英雄的であった。語り手が「武勇赫赫たる五十日」戦争と呼んだのも無理はない。その戦いに敗れた後、村=国家=小宇宙の人々には精彩がなくなったようだ。それでも、双子の親である父=神主が、子どもたちの扶養を放棄していたときに、その子どもたち、とりわけ双子の兄妹を、村全体の子として育てるくらいの気風は残されていた。そうした気風が、小説の語り手をして、自分も又村=国家=小宇宙の一員なのであり、その自分が村=国家=小宇宙の神話と歴史を書くことには強い理由があると感じさせるわけなのだ。






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