そして人生はつづく:アッバス・キアロスタミ

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アッバス・キアロスタミの1992年の映画「そして人生はつづく」は、1990年に起きたイラン大地震をテーマにしている。この大地震では三万人以上の人が死んだといわれるが、その被害を受けた地域に、映画「友たちのうちはどこ」の舞台になったコケルやポトシュの村も含まれていた。そこでその映画を監督したキアロスタミが、息子をつれて被災地を訪れ、かつて映画に出ていた人々の安否を知ろうとするところを、この映画は描いている。劇映画というわけではないが、完全なドキュメンタリー映画でもない。セミ・ドキュメンタリー映画とでもいうべきか。

キアロスタミ本人ではなく、俳優がキアロスタミ役として出て来る。かれの息子として一緒に出て来るのは、プーヤ・パイヴァールという名だから、これもキアロスタミの子ではない。その辺は、劇映画と同じく、フィクションが含まれているわけである。

二人はポンコツ自動車に乗って被災地に向かう。しかし交通渋滞が激しくて、なかなか被災地に近づけない。そこで脇道を走ることにするが、地震で地面に大きな亀裂が出来ていたりして、スムーズに走ることができない。試行錯誤を重ねながら進んでいくうち、だんだん目的地に近づく。そのうち、かつて「友だち」に出たことがあるという少年と出会う。その少年は、映画の中で背中が痛いというポトシュの子どもを演じていたのであるが、かれに被害の様子を聞くと、ポトシュはひどい被害を蒙り、コケルのことはわからないという。

やがてポトシュの村についた彼らは、やはり映画の中に出ていた老人と出会う。その老人は、自分の家を地震で失い、別の家に身を寄せていた。その家の住人は一家全滅していたのだ。ほかにも、家を失ったり、破壊されたりした人々の姿を見る。そうした人々が、地震をどう受け止めるかについて語る。死んで初めて生きていることのありがたさがわかったと言うものもいれば、これは神の試練だと言うものもいる。死は突然やってくる。神がその死を、われらに試練として与え給うのだ。アブラハムもそのような試練を神から与えられた。そう言って旧約聖書の物語を引き合いに出すものもいる。イスラム教も又、旧約聖書を共有しているということを思い知らされる場面だ。

キアロスタミらは、なんとかしてコケルに入りたいと思う。そこででこぼこ道をコケルに向って走らす。その途中で、コケルの人びとのキャンプに立ち寄る。キャンプでは、丘のうえにテレビアンテナを据えている最中だった。サッカーの試合が観たいのだという。こんな時にサッカー観戦かねとキアロスタミが皮肉を言うと、こういう時こそ見る価値があるのだと反論される。イラン人のサッカー好きが伝わってくる場面だ。

「友だちのうちはどこ」で主演の少年を演じていた少年の消息も聞けた。その少年はいまさっきコケルに向って歩いて行ったと知らされたキアロスタミは、一人で自動車に乗りコケルに向かう。息子はその場に残ってサッカーの試合を見たいというのだ。

コケルへの道はひどい坂道で、ポンコツ自動車ではまともに走れない。何度もエンストを起し、ついにはあきらめようともしたが、あきらめきれずにおいかけつづける、そのけなげな努力を映し出しながら、映画は終るのである。

地震による被災状況を描き出すのがこの映画の一つの目的のようだが、そのわりには、被災の程度は仰々しくは描写されていない。それよりも、かつて映画を通じて触れあった人々との人間的な関わり合いが情緒的に描かれている。だから、この映画は、困難を通じてかえって強まった人間の絆に強い焦点を当てているように受け取れる。情緒的といっても、そんなにウェットなものではない。神が人々をかくも結びつけるのだとでもいうような、半ばかわいた情緒である。






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