蜂の旅人:テオ・アンゲロプロス

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テオ・アンゲロプロスの1986年の映画「蜂の旅人」は、ギリシャの蜂飼いをテーマにした一種のロード・ムーヴィーである。蜂飼いとは、蜂を飼育する一方、果樹の受粉の季節になると、各地の農場を廻って、蜂を放ち受粉を手助けする仕事をいう。アメリカの農場では、この蜂飼いたちが大活躍し、彼らなしには農園経営がなりたたないと言われるくらいだ。近年、ミツバチたちが原因不明のまま激減して、大きな社会問題になったことは記憶に新しい。

この映画のなかの蜂飼いも、春の受粉の頃にミツバチの巣をトラックに積み込み、ギリシャの各地を回っては、ミツバチを放ち受粉を手助けする。もっとも、ミツバチを放つシーンは出て来るが、それが農園主から請け負った仕事だとは語られない。蜂飼いは、自ら進んでミツバチを放ち、ミツバチたちの蜜集めを促しているとだけ伝わって来る。

マルチェロ・マストロヤンニ演じる蜂飼いが、春を迎えるころに、数人の仲間とともに蜂を連れて出発する。ところがこの男は、妻や子と絶縁したばかりで、天涯孤独の身を選んだということになっている。映画の冒頭では、捨てることにし次女の結婚式のシーンが流されるのだが、孤独になってしまった父親には、娘の結婚を祝う気持ちがない。かれがなぜそんな境地になってしまったか、映画は語らない。ただ、家族が解体したことがそれとなくアナウンスされるだけである。

かれの出発は「花の道の旅」と呼ばれる。昨年まではトラック十台の仲間で出発したものが、今年は五台になった。かつてはもっと多かった。少なくなってしまったのは、時代の変化を反映しているのだろう。来年には自分もやめるという仲間もいるから、いずれギリシャには蜂飼いがいなくなってしまうだろう。

ともあれ、男は途中から単独行動に移る。あらかじめ決めておいた道筋に従って、ギリシャ各地を巡るつもりだ。ところが、出発早々一人の少女を拾うことになる。この少女は単身でヒッチハイクをしながら、きままな暮らしを楽しんでいるふうなのだ。男は当初軽い気持ちで少女を車に乗せたのだが、少女のほうでは男と一緒にいることが気休めになるらしく、しつこくつきまとって離れようとしない。しかも、男と一緒に泊まったホテルに、いきずりで知り合った男を連れ込み、隣のベッドでセックスしたりする。そんな少女がさすがに煩わしくなった男は、断固として少女を捨てるのだが、少女はそんな男をどこまでも追いかけて来る。男の向かう道筋を、男の手帳を見て知っているのだ。

少女によって心のどこかが刺激されたのか、男は義絶した長女に会いに行ったり、捨てたはずの妻を訪れたり、不可解な行動をとったあげく、一旦は捨てた少女が恋しくなり、ある町で少女を見つけて、そのまま自分のトラックに載せるのだ。

かくて少女と絆で結ばれたかに見える男は、少女とともに昔なじみの映画館主のもとを訪ね、映画館の中で泊まらせてもらうことになる。男と泊まることになった少女は、全裸になって男を挑発する。しかし男は(多分インポなのだろう)そんな少女を喜ばすことができない。がっかりした少女は「私を出発させて」と言い残して、去ってしまうのである。取り残された男は絶望的な気分になり、蜂の巣箱を破壊してしまう。その男に膨大な数のミツバチが群れ戯れるところを映しながら映画は終るのである。

というわけで、一応家族の意味とか、初老の男の感性とかがテーマになっているように見えるのだが、それを正面から描いているわけではないので、わけがわからないままになんとなく終わってしまうといった感じがする。マルチェロ・マストロヤンニは、このとき六十を超えていたが、その年にふさわしく、マストロヤンニとしては拍子抜けといえるくらい、冴えない感じを出していた。かれが少女に結局は捨てられることになるのは、その男としての冴えないところがもたらしたのだと、伝わって来る。

もしかしたらアンゲロプロスは、この初老の冴えない男に、同時代のギリシャを重ね合わせて見せたのかもしれない。





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