霧の中の風景:テオ・アンゲロプロス

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ロード・ムーヴィーの傑作は数多くあるが、これほど心を揺さぶられる作品もないのではないか。というのもこの映画は、幼い姉弟を主人公にしており、かれらのいじらしい目的が大人の共感を呼ぶ一方、かれらの体験する苦悩が、惻隠の情を呼び覚ますからだ。実際この姉妹は、小学校六年生くらいの女の子と、小学生にもならない幼い男の子なのだが、その幼い子供たちが、たった二人だけで、ギリシャからドイツまで、父親を捜しに行く旅に出るのだ。

この姉弟が父親を強く慕うわけは、画面からは強くは伝わってこない。この姉弟は母親と三人暮らしなのだが、その母親は生きていくのが精いっぱいで、子供たちにあまり手をかけることができないというふうに伝わってくるので、おそらく親の愛に飢えているのだと思う。その愛の希求が母親に向かないで父親に向いたわけだが、その父親のことは、かれらはなにも知らないのだ。母親からは、父親はドイツにいると聞かされているが、それが本当かはわからない。それでも子供たちは、一目でいいから父親と会いたいと願う。一目見ることができれば、それで満足して家に戻るので、是非自分たちに会って欲しいとかれらは願う。その願いが最高潮に達したところで彼らはドイツ行きの列車に乗り込むのだ。

二人だけで思い立ったことで、母親にも話していないから、無一文で列車に飛び乗ったのだ。ギリシャに限らずヨーロッパの鉄道システムは、改札がないので、切符がなくともとりあえずは列車に乗ることができる。しかし、すぐに検札がやってきて、切符をもっていないと、列車から降ろされてしまうのだ。この子たちもすぐに降ろされてしまい、その後の処置を駅員に引き継がれる。駅員は子どもたちの伯父だという男のところへ子供たちを連れて行く。その叔父とは、母親の兄だが、妹の子供たちにかかわりあうことを拒絶する。子供たちが父親と会いたがっていることを駅員から聞かされると、あの子たちは私生児で、父親などいないと言い放つ。

そんなわけで、客観的な情勢としては、父親の所在など知れないわけだし、また知れていたとしても、父親があってくれる可能性はゼロに近いわけだが、それでも子供たちは、なんとかして父親と会いたい思いで、ドイツに行くことをあきらめないのだ。

こうして幼い姉弟のドイツをめざした旅が始まる。その旅は、幼い子供たちにとっては過酷なものだった。子どもたちは、列車に飛び乗ってはすぐに降ろされるということを繰り返し、なかなかギリシャから出ることもできない。それでも、少しづつドイツに近づこうとして、なんども列車に飛び乗っては、また降ろされるということを繰り返す。その合間に、色々な人間と出会う。なかには親切な人もいて、気持ちよく車に乗せてくれるものもいるが、邪悪な男もいて、まだ幼い女の子を強姦したりもする。強姦されてはさすがに気丈夫な女の子も、心が深く傷つくのだが、それでも父親に会う望みは捨てない。そんな彼女らの前に、旅芸人の一座が現れる。その一座の一人で、オートバイに乗っている青年と二人は仲良くなる。しかし、その一座は、仕事がうまくいかなくて解散してしまうし、青年も徴兵が間近に控えているという。

そんなわけで、再び二人きりになった女の子は思い切った行動に出る。ある駅で出会った男に援助交際をもちかけて、それで得た金でドイツ行きの切符を買おうというのだ。その男はさいわい強姦してきた男のように邪悪ではなく、女の子に金だけくれる。その金でドイツ行きの切符を買った二人は、喜び勇んで列車に乗る。もう降ろされることはないのだ。こうして列車がドイツに近づいたところで、パスポートを用意しろとのアナウンスが流れる。二人は無論そんなものを持ってはいない。そこでドイツの手前で列車から降りると、歩いて国境を突破するのだ。

ドイツは川の向こう側にある。その川をボートで渡った二人は、やっと念願のドイツの地を踏む。そのドイツは霧に包まれていて、その霧のなかから一本の大きな木が浮かび上がって来る。その木が、子供たちにとっての希望の木になるのかどうか、それは画面からはわからない。とにかく、二人がドイツの地を踏んだところを映し出して、映画は終るのである。

こんな具合でこの映画は、子供たちが懸命に生きていこうとする姿勢を打ち出している。そこが観客の心の琴線に強く触れるのだと思う。この二人は、困難に直面して気がくじけそうになると、聖書の語句を唱えて心を奮い立たそうとする。言葉から勇気を与えられると、この二人は信じているのだ。そんな二人のけなげさが、この映画をより迫力のあるものにしている。もっとも、画面の進みゆきは、アンゲロプロス一流のゆったりした流れになっていて、いささかもせわしさを感じさせない。






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