野党的気性

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先日トーマス・マンのゲーテ論を読んでいたら興味深いくだりがあった。ゲーテは野党の立場には決して立たなかったし、野党に理解を示したこともなかった、というのだ。ここで野党と言われているものは、意識的に主流派に対立するのを好む連中を言う。ゲーテはそういう連中を軽蔑して、自分はつねに主流派に与したいと考えた。それはゲーテのエリート意識から来ている、社会のエリートに属する者は、常に支配的な立場に立つものだし、また自分が恩恵を受けていると感じる体制の現状を肯定するものだ。支配層はいつでも保守的だった、そうマンは言うのである。

これを読んだ小生は、聊か考えさせられるところがあった。ゲーテといえば、常に人間の進歩をなによりも大事にしていたのではなかったか。少なくとも小生の意識の中では、ゲーテはそういう人物として区分けされていた。ゲーテは保守的ではなく、進歩的だというふうに受け取っていたわけだ。そのゲーテが、野党の立場には与しないで、現状の維持に注力する保守派に自己を同一視させるというのは、もしそれがマンの言うとおりゲーテの本音であったとしたら、ショッキングなことであると思った。

野党の立場に立つ傾向が強い人間は、もともと権威とか権力とかいったものに反発するように出来ているのだと思う。そうではなく、正義への衝動がそうさせるのだという人もいるが、基本的には気質あるいは気性の問題ではないかと、時々思うことがある。保守的になるには、物質的な理由がないでもないが、野党的になるのにそういう理由は働かない。何故なら野党的になって、とりあえず得になるようなことはほとんどないからだ。にもかかわらず、野党に与して権力に立ち向かおうというのは、やはりそういう人間の個性に根差しているのではないか、と思う。

主流派の立場に立つというのは、生き方としては快適なものだ。なにしろ自分を権力者と一体視できるのであるから、権力に近い分偉くなった気持ちになれる。また、自分よりも弱い立場の人間に対して、大したリスクを冒さずに攻撃的態度をとることができる。いわゆるいじめとか、パワハラとかいったものは、そういう意識の表出したものだと思う。

一方野党的な気性の人間は、権力と対立することが多いわけだから、自分を偉い人間だと感じる機会はほとんどないし、かえって権力を持った人間とかその周辺の人間から迫害されるリスクがつきまとう。それでも野党的に振る舞わざるをえないのは、やはりその人の気性によるのではないか。

こう考えた所で、ゲーテに関して言えば、彼は決して自分を偉く思い、自分よりも弱い人間を軽蔑することを好んだということではないだろうと、忖度もするのだった。ゲーテのように先天的に自信の強い者は、自分がエリートであることを当然のことに思い、エリートらしく振舞うようになるのだろう。つまり打算からではなく、気質的にエリートらしく出来ている人間もいるということだ。ゲーテはその典型的な一人なのだろう。





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