無について

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哲学は存在についての問いから始まったが、その時から無は哲学の最大級のテーマでありつづけて来た。何故なら無は、存在の否定として、存在と不可分だからだ。否定は、人間の知的な能力のうちでも、もっとも基本的な能力をあらわすものである。人間があるものを認識する時は、それを肯定する作用とならんで、否定する作用が、根本的な働きとして動くからだ。それゆえライプニッツは、何故無ではなく存在があるのか、その根拠がある、という言い方で、無と存在とが一対の双子の概念であることをあらためて確認したのだった。

無は存在の否定だと言った。これには二通りの意味がありそうである。一つは端的に存在を否定することである。あるものが存在しないこと、それを非存在という意味で無と言い現わす。そのあるものは、存在しないのだから、それは無だというわけである。西洋の哲学が無を問題とするときは、それはたいていこの類の無のことを取り上げている。もうひとつは、あるものではなく、およそすべてのものが存在しない事態を無という場合である。これは何も存在しないことを言うわけだから、虚無と言ってよい。存在の部分否定ではなく、全否定である。しかしこれは西洋哲学では、背離的な考えとして拒絶されて来たきらいがある。なぜなら、存在を全面的に否定することは、存在そのものの否定を意味し、したがって無をも否定することになりかねないからだ。

そこで西洋哲学で無を問題とするときには、だいたいが存在の部分否定としての無を取り上げて来たというのが実際のところである。無とは、あるものが存在しないことを言い現わす概念であって、その意味では、存在を部分的に否定する作用から生じる。無は人間の知的作用に随伴する現象だということになる。人間があるものを否定するからそこに無が生じるのであって、無というものがあるから、それを人間が認識するということではない。この考えは一見合理的に見えるが、我々日本人にはどこかちぐはぐな印象を与える。というのも我々日本人の多くは、無を虚無のようなものとして捉え、その虚無を人間が認識するというふうに思っているからだ。虚無は人間の認識作用の結果生じるのではなく、人間の認識作用に先立って存在している。つまり無は、存在の否定というよりは、存在の脱落、あるいは脱落した存在というふうに、多くの日本人は思っているのではないか。だから日本人は、脱落した存在をイメージしやすいように、虚無という言葉を好むのではないか。

ここで、無の概念の哲学的な意味について、厳密に定義しておく必要があろう。というのも、無の捉え方に上述したようなニュアンスの相違があり、また無を否定性として捉える場合にも、その否定のあり方をめぐってさまざまな意見があるからである。無を否定性としてとらえる主流の立場によれば、無とは存在の否定態ということになる。否定とは、基本的には意識の作用であるから、無とは意識によって生み出されたものということになる。この考え方をスマートに表明したのがサルトルである。サルトルによれば、存在者そのものには否定的な意味は含まれていない。たとえば、災害によってなにものかが破壊された場合、破壊前のそのなにものかと、破壊されたあとのなにものかの間には、存在者としての資格では、何らの相違もない。破壊される前のなにものかはそのなにものかとして存在していたのであり、破壊後のなにものかはそのなにものかとして存在しているのである。しかし人間は、破壊されたあとのそのなにものかを、破壊される前のなにものかが存在しなくなってしまったものとして捉える。この~として捉える、という作用のなかに否定性が含まれているわけであるが、それは意識による産物である。つまり、意識が否定性という形で無を産出するのであり、存在者の世界そのものには無はそもそも存在しない、というふうにサルトルは考えたのであった。無はすぐれて人間的なものだというわけである。

サルトルにはもう一つ、無についてのユニークな見方がある。サルトルによれば、人間の意識は存在の現れ出る舞台のようなものである。サルトルは意識が存在の根拠だなどとは言わないが、その点では観念論との批判を避けているのだが、しかし存在が意識に現れ出るそのあり方、その現象そのものは人間の意識に相関的なものだとの見方に立っていた。存在というものは、また存在者の全体としての世界とは、少なくとも人間にとっては、人間の意識に現れ出たその姿において意味を持つものなのである。だから人間の意識から独立した、カントのいう物自体のようなものは、可能性としては議論の対象とはなるが、哲学的には何の意味も持たない。人間にとって意味を持つのは、人間の意識に対してあらわれる現象なのである。意識とはその現象が展開する舞台として考えられる。舞台であって、それ自身の存在は問題にならない。舞台であるから、舞台という存在者なのだと言えなくもないが、サルトルはそうは言わない。舞台はそれ自体として存在性格を主張することはなく、あくまでも存在者の存在がそこで展開するための地のようなものである。それをサルトルは無と名付ける。サルトルにとって人間の意識とは、そのものとしては無なのである。

しかしこういう考え方は、考え方としてはユニークかもしれないが、哲学的な概念としてはあまり評判はよくなかった。無であろうと、存在の舞台としてのメタ存在であろうと、意識の機能にあまりたいした相違はもたらさないと考えられたからである。

サルトルが存在の否定としての無に着目し、それを限定的な存在の否定として捉えたのに対して、ハイデガーは、存在の全面的な否定としての無について考えた。存在の全面的な否定という考え方には、上述したような矛盾、つまり存在の否定としての無は、存在を全面否定したのちには、存在とともに消えてなくなってしまうのではという懸念があるわけだが、ハイデガーはその懸念を乗り越えて、存在の全面的な否定としての無とはどういうものかについて、思索を含めた。つまりハイデガーは、存在の全面的な否定としての無はある、つまり存在すると考えたわけである。

存在の否定としての無という場合、およそなにものかを否定するためには、そのなにものかについて認識しているのでなければならない。でなければそもそも何を否定するのかがはっきりしないからである。ところが、存在の全面的な否定という場合、否定されるのはすべての存在者である。つまりこの世界に存在するものをトータルに否定するということになる。しかし有限な存在者である人間の有限な認識の能力を以てしては、すべての存在者を認識することは不可能である。世界の果てのことばかりではなく、自分の身近な環境でさえも、人間はトータルに認識することなどできない。そんなありさまで、どうやって存在の全面的な否定が問題になるだろうか。

この問いに対してハイデガーは、次のように答える。存在者の存在とは、人間とは無縁なところで基礎づけられているのではない。存在者の存在は、現存在としての人間の世界了解という形で基礎づけられるのである。ということは、すべての存在者は、それが現存在=人間のうちにその存在基礎をもっているということである。ということは、人間は世界全体としての存在者の存在を、理念的に把握する可能性をもっているということになる。その人間が、すべての存在者の存在を否定することは、十分ありうることなのである。人間にとってすべての存在者の存在が否定されるという事態は、彼自身の否定を意味しているだろう。つまり人間というものは、つねに自分自身の崩壊と世界の否定とを、可能性として内在させているのである。その可能性は、不安という形で現存在に与えられる。不安は、現存在の全面的な崩壊についての不安である。無はその不安のうちで、明確な形をとって人間に迫ってくるわけである。





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