大江健三郎「ヒロシマ・ノート」

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大江健三郎は、日本人作家としては珍しいほど政治的な発言をする。その傾向は作家として出発した頃からあった。彼の関心とかコミットメントは色々な方面にわたっているが、最も早くから彼の関心の中心点となったのは核問題だ。「洪水はわが魂に及び」などは、核問題をテーマに据えたものだし、そのほかにも、色々な機会をつかまえて核問題への自分のこだわりを表現した。「ヒロシマ・ノート」と題したエッセーのようなものは、そのひとつの成果である。

このノートは、1963年の春に広島を訪れた時の広島の印象を記すことから始まり、翌年の春に広島を再訪し、それを機会に核兵器の意味と、核兵器によってひどい目にあわされた広島の人びとの人間としての尊厳について考察することからなっている。1963年の春は、原水協が分裂した年で、その分裂の様子を大江は苦々しい気持ちを隠さずに書いている。大江としては、運動が分裂することは、悪い意味での政治主義のあらわれであり、広島の被爆者たちが望んでいないことだと、批判的に書いている。分裂の理由は、「あらゆる国の核兵器」をめぐっての政治的な路線の違いにあり、「あらゆる国の核兵器」を禁止すべきだという主張と、「一部の国の核武装」は認められるべきだという主張がぶつかり合ったことに起因する。大江自身はどちらの側につくというわけではなく、運動が分裂すること自体を批判的な目で見ている。

大江が広島を訪れた動機は、広島の被爆者や被爆後広島に残って医療活動に従事した人々とのつながりがあったことによるようだ。そのなかで、広島原爆病院の院長は、大江との交流もあるらしく、大江は畏敬の念を以て言及している。この院長にしろ、入院患者やその他の被爆者にしろ、大江はそれらの人びとと交流することで、かれらの生き方に強い共感を覚えたと書いている。その共感は、彼らの人間性への畏敬に根差しているのだが、その畏敬は、彼らが人間として表出している威厳に発している。大江は威厳という言葉を使っているが、その言葉を尊厳と言い換えたら、もっとわかりやすいかもしれない。

大江は、翌年の春に広島を再訪するわけだが、その際に、被爆者の間で被爆の記録を残そうという運動が起きていることに共感し、自分もその運動に参加したいと言い、他の人びとへも参加を呼び掛ける文章を、このノートのなかで披露している。こうした運動は、被爆後数年の間にもあったのだったが、広島の惨状を世界に知られたくない米軍当局によって抑圧されて来た。それが、原爆投下から20年近くなって、米軍の露骨な弾圧を気にしなくてよいようになって、改めて記録を残そうという運動が盛り上がったのである。このノートの主な意義は、その運動を広く紹介することと、その運動へ参加するように、読者に向って呼びかけることにあったようだ。

大江はこのノートの中で、原爆のむごたらしさを繰り返し指摘している。そういうむごたらしいことを平然と行ったアメリカ人をも強く非難している。その非難は、ひとつは広島・長崎への原爆投下の責任者ルメイ将軍に日本政府が最高位の勲章を授与したことへの怒りとして現われ、また、朝鮮戦争に関して、朝鮮にも原爆の数発を落としたらどうだろうと、平気で広島の被爆者に語り掛けたというアメリカ人の無神経ぶりへの怒りとしても現われる。

大江のこうした怒りは、広島の被爆者たちの人間としての尊厳への、共感の裏返しといえる。広島の被爆者たちは、自分や家族が受けた理不尽な仕打ちに怒ってよいはずだが、ほとんどの被爆者は沈黙を守っている。その沈黙はどこからくるのか。おそらくは窺い知れない深淵からなのだろう。そのように大江は感じ取ったようだ。

このノートを書いていた時期の前後に、大江は小説「個人的な体験」を執筆していた。「個人的な体験」は大江自身の個人的な体験をとおして、人間に襲い掛かる運命の重さのようなものを考えたものだが、その自分の感じた運命の重さを、大江は被爆者にも感じたのだろうと思う。大江は、その感じたことを、ノートの最後の部分で次のように書いているのだ。

「僕は昨年出版した小説『個人的な体験』の広告に、<すでに自分の言葉の世界にすみこんでいる様々な主題に、あらためて最も基本的なヤスリをかけようとした>と書いた。そして僕はこの広島をめぐる一連のエッセイをもまたおなじ志において、書きつづけてきたのであった。おそらくは広島こそが、僕の一番基本的な、いちばん硬いヤスリなのだ」

この言葉は、大江の個人的な体験と広島を襲った悲劇とが、大江の心のなかで渾然と響きあっていたことを示している。






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