テアイテトス読解その五

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ソクラテスがテオドロスを相手に行った議論は、その趣旨からいえば、テアイテトスを相手にしたものと変わらなかった。つまりプロタゴラスの説とヘラクレイトスの説を反駁することなのである。なぜ、蒸し返しともいうべきことをソクラテスがあえてしたかというと、この二者の説が、知識は感覚に他ならないとする主張を裏付けるものと判断したからだろう。ソクラテス自身が、この議論の終わり近くでそのように述べている。プロタゴラスの、人間は万物の尺度であるという説は、個々の人間が自分の知覚=感覚するものこそ知識の源泉だとするものであるし、ヘラクレイトスの運動実有説は、万物が動いていることを直接的に知るものは感覚であると主張している。だからこの二者の説を反駁すれば、知識は感覚であるという主張への打撃になるだろう、とソクラテスは考えるのである。

だが、この両者を反駁する仕方は、テアイテトスを相手にした場合とは多少異なっている。ソクラテスは、テアイテトスがまだまだ未熟であることを考慮して、なるべく優しい議論をしていたのだったが、テオドロスにはそのような考慮はいらないとばかり、かなり入り組んだ議論をいとわない。テオドロスは数学の専門家であり、抽象的な議論にも馴れ親しんでいると考えたからだろう。

ソクラテスがプロタゴラスを反駁するやり方は、かなり抽象的というか、形式的である。つまり、実質的な議論を以て相手を反駁するのではなく、相手の議論の形式上の不都合を理由に矛盾を指摘し、その有効性に疑問を投げかけるというものである。

ソクラテスはまず、プロタゴラスの考えている知とは思考の真なるもののことであり、無知とは思いなしの偽なるもののことをいうとテオドロスに確認させる。その上で、人間の思いなすことには、真のこともあるが偽のこともあると言う。ところがプロタゴラスの説によれば、人間の思いなしはすべて真ということになる。何故ならプロタゴラスは、人間は万物の尺度であり、万物は人間が思いなす通りのものだと主張しているからだ。だがそうだとすれば重大な矛盾が生じる。

ソクラテスが思うには、世の中には色々な人がいて、それぞれ得意なこととそうではないことがある。しかして事柄ごとに、そのことに通じている人の知識は、そうではない人の知識に比べて真なる度合いが強い。たとえば身体の病気については、医者の知識のほうがそうでない人の知識より真の度合いが大きく、したがってより信頼できることは、何人も否定できないことだ。この例からわかるとおり、人によって知識の真なる度合いは異なるのだ。ところがプロタゴラスによれば、知識の真なる度合いは人によって異なることはなく、すべての人の思いなしは、平等に妥当するということになる。

その結果どういうことになるか。プロタゴラスの説に従えば、およそどんな事柄についても、プロタゴラスの思いなしと他のすべての人の思いなしは、平等に妥当するとして尊重されるべきである。たとえば、ある人がプロタゴラスの言っていることは偽だと言うとしよう。その主張をプロタゴラスは否定することができない。何故ならプロタゴラスは、すべての人の思いなしは平等に妥当すると言っているからだ。

プロタゴラスがこういう矛盾に陥るのは、すべての人の思いなすところ、つまり思考は常に真だと仮定することから起こる。思考には、真だけでなく偽の場合もあるということを認めれば、こういう矛盾はなくてもすむ。そうソクラテスは言うのだが、どうもそういうソクラテスの論理展開には、トリックめいたものがありそうである。先ほど触れたように、ソクラテスはプロタゴラスの主張を、「知とは思考の真なるもののことであり、無知とは思いなしの偽なるもののことをいう」と要約しているのであるが、これが果たしてプロタゴラス自身の主張なのか。小生はプロタゴラスの「真理論」(この対話の中でソクラテスが言及しているもの)を読んでないのでなんともいえないが、訳者である田中美智太郎の注釈によれば、プロタゴラスは、知と無知との違いを論じてはいるが、それを真偽とは関連付けていなかった。知識と真偽とは別の事柄と捉えていたようなのだ。ところが、ここでのソクラテスの議論は、智識がすなわち真理であるというふうに、智識と真偽の区別をごちゃまぜにしている。つまりプロタゴラスの意図とは違った前提を設けて、そこからプロタゴラスを攻撃していると思われるフシがあるのだ。

こうまでしてソクラテスがプロタゴラスを攻撃する理由はほかにもありそうである。この議論に続けてソクラテスは、知を愛好する者がいかに不当な仕打ちを受けているかについて、くだくだしい主張を展開するのであるが、それはどうもソクラテス自身が世間から不当な仕打ちを受けていることへの怨嗟とも受け取れるのである。世間の人びとは、自分も含めた知の愛好者つまり愛知者=哲学者を、バカにするのがせいの山で、すこしも尊重しないが、それは知識においてはすべての人に優劣はないとするプロタゴラスの主張が、人々に愛知者を軽蔑させているからではないか、とソクラテスは言いたげなのである。ソクラテスは、かのタレスが、天上に気をとられて足元の穴に落ちたことをトラキアのおどけ女に揶揄されて、「あなたさまは熱心に天のことを知ろうとなさいますが、ご自身の足元のことはお気づきにならないのですね」と言われたことをとりあげ、自分もそのようにして不当に嘲笑されているのだと言うのである。ソクラテスがそう言うわけは、日頃の言論がもとで、メレトス一派に訴追されたばかりだからだろう。

以上からわれわれ読者は、ソクラテスのプロタゴラスへの反感が、ただに議論の是非ばかりでなく、自分自身の境遇への不満にも根差していることを、この対話編の行間から読み取れるのである。

プロタゴラスに続いてソクラテスは、ヘラクレイトスの運動実有説を反駁する。ヘラクレイトスの説の信奉者は、たんにエペソス一帯の者に限らず、ホメロスを始め大勢いる。したがってプロタゴラスよりも、相手としては手ごわい。その相手の説、万物は運動しており、静止はないとする主張を、どのようにして反駁するか。

ソクラテスは、また例によって、言葉の定義から始める。その定義の仕方はかなりユニークなものだ。ソクラテスは運動には二種類、状態の変化と場所の移動がある、という。その上で、状態の変化の場合には、ひとつの状態から別の状態への変化が問題になるわけであり、場所の移動の場合には、ひとつの場所から別の場所への移動が問題となることは明かである。その場合に、変化する前後のそれぞれの状態は、そのものとして静止した状態なのである。運動の場合には、ある場所に静止している状態から別の場所に移動してそこに静止したというふうに考えられる。ということは、運動とは、二つの静止を結びつけるものだということになり、ヘラクレイトスの運動のみがあって、静止はないという主張には根拠がない。そのようにソクラテスは理窟づけるのであるが、これもかなり苦しい議論といわねばならないだろう。

ともあれ、「われわれが万物は動くということを証明しようと思って一生懸命になったのは、あの今の(感覚即知識という)答えを正しいものとして示そうとする、ただそのためだったんですからね」とソクラテスは言うのであるが、この言い方は無論反語である。万物は動くだけではなく、静止もしているということが明らかになった以上、感覚即知識という説には根拠が無くなった、と言いたいわけなのである。






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