維摩経を読むその七:不二の法門

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第八章は、漢訳では「入不二法門品」と題され、不二の法門に入るとはどういうことかについてがテーマだ。すなわちヴィマラキールティが菩薩たちに向って、不二の法門に入るとはどういうことか尋ねる。それに対して三十人あまりの菩薩たちがそれぞれの立場で答え、最後に文殊菩薩が議論をまとめるという形をとっている。その文殊菩薩のまとめを踏まえ、ヴィマラキールティが感想を述べる(ジェスチャーで表現する)というものである。

ここでは、三十人余りの菩薩の答えの中から、主なものを抜き出してみよう。まず、冒頭の法自在菩薩の答え。法自在菩薩は、生じると滅するとが二であると言う。ところで生じるということがなければ、滅するということも起こらない。法とは無生、すなわち生じることがないと悟ることが不二に入るということである、というのである。

吉祥蜜菩薩は、われありとわがものありというのが二であると言う。われというものをいたずらに構想することがなければ、わがものはなくなる。それが不二に入ることである。こういうことで吉祥蜜菩薩は、自我と対象、主観と客観との対立にとらわれることの無意味さを強調しているのである。

吉祥峰菩薩は、汚れと浄めとが二であると言う。汚れを十分に知るならば、浄めに対する妄念もなくなる。それが不二に入ることである。このように言うことで、汚れと浄めをいたずらに対立させることの無意味さを強調しているわけである。

善眼菩薩は、一相であるといい、無相であるという、これが二であると言う。判断をやめ、分別をやめるならば、それは一相ともせず、無相ともしない。そのように相を相互に区別しないことが不二に入ることである。そう言うことで、判断とか分別にとらわれることのはかなさを強調しているわけである。

電光菩薩は、知と無知とが二であると言う。知は本質的に無知と異ならないと理解することが不二に入ることである。

喜見菩薩は、色(形)と空とが二であると言う。ところが色は即ち空である。色と空とは別物ではない。五蘊皆空と知ることが不二に入ることである。こういうことで喜見菩薩は、般若経の空の思想を確認しているのである。

以上を通じて共通していることは、二というのは、人間による分別の働きがもたらしたものだとする考えである。それによってもたらされるのは妄念のようなものである。妄念を離れて真実在を見ようと思えば、分別によって何でも二項対立させようとする態度を改めなければならない、その分別をやめるというのが、不二に入るということだと言っているわけである。

このことを華厳菩薩が別の言葉で説明している。華厳菩薩は、自我が起ることから二の対立が生じると言う。自我というものは、対象を弁別することで、認識しようとする傾向を持つが、その認識は基本的に二項対立という形をとる。二項対立は、人間の理性的な認識がとる基本的なあり方なのだが、それによっては、真実在をとらえることはできない。真実在は、二項対立を超えたところにある、というのが仏教的な考え方なのである。

このことを吉祥胎菩薩がわかりやすく言っている。吉祥胎菩薩は、認識によって、二の対立が現実化すると言うのだ。認識のないところには二はない。それゆえ、認識の結果あれこれと判断しないことが、不二に入ることだと言うのである。

以上、菩薩たちの説を受け止めた形で、文殊菩薩が意見を述べる。文殊菩薩は言う、あなたがたの説はすべてよろしいが、しかし、あなた方の説いたところは、それもまたすべて二なのであると。本当の不二とは、なんらの言葉も言わず、説かないということも言わないことなのである、というのである。

そう言ったうえで文殊菩薩が、ヴィマラキールティに意見を求めると、ヴィマラキールティは、口をつぐんで何も言わなかった。すると文殊菩薩は、「大いに結構です。これこそ菩薩が不二に入ることであって、そこには文字もなく、言葉もなく、心が働くこともない」と言って満足するのである。

続く第九章は、漢訳では「香積仏品」とよばれ、仏陀の食事がテーマである。仏陀の食事とは、仏陀の家系同様比喩的な表現であって、実質は、無尽の戒律と知恵と禅定をさしているのである。それは八つの法に集約される。その八つの法を身に着けたならば、菩薩はこの娑婆世界で死んだ後、浄らかな仏国土に生れることができる。

その八つの法とは、「自分はあらゆる人々に利益を与えよう、しかし、彼らからはなんの利益も期待しない」という布施の教えほか、忍耐、慈悲、喜などといった修業の徳目なのである。







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維摩経の醍醐味は不二法門にあるのではないだろうか。
 善意菩薩の答えを聞いてみると、「生死(しょうじ)と涅槃(ねはん)とを二(に)と為す。若し生死の性を見れば則ち生死無く、縛(ばく)も無く解(げ)無く、生ぜず滅せず、かくの如く解すれば是を不二法門に入ると為すと。」
 生死の本性を極めれば生死はなく、生死の迷いがなければ束縛もなく、解き放されたこともなく、生なく滅なく、生死と涅槃は二つでありながら、そのまま一つになることを説いています。生死というのは生まれたり死んだりすることです、と文字の上では思われるが、そうではないのです。生死とは存在のことなのです。生死とは存在を時間的にみたものであり、存在とは生死を空間的にみたものにほかなりません。まったく、同じものを空間的にみれば存在であるし、時間的にみれば生死となります。
生死は存在の時間的側面であり、それは移り変わっていくことです。変化していくことです。無常の存在のことです。・・・・生死のない世界など、実はどこにもないのです。「生まれる時は生まれる。死ぬ時は死ぬ」ただ、それだけなのです。生死していること、そのことが、そのまま無生死の世界、すなわち涅槃にほかならないのです。
 文殊師利は、最後に答えて「我が意の如くんば、一切の法において言もなく、説もなく、示もなく、識もなし、諸々の問答を離る。これを不二法門に入ると為すと。」
 文殊は一切の真理には、言葉もなく、説明しようもなく、識(し)りようもなく、示しようもなく、すべての問答から離れている、そのことを「不二法門に入る」とした。ぎりぎりの答えをだした文殊が最後に維摩に質問した。維摩はなんと答えたか、黙念として答えなしでした。文殊師利は感に堪えないで、「善いかな、善いかな、乃至文字語言有ることなし。是真に不二法門に入るなり」
 言葉で説かれたものが真実ではない、と文殊は言葉で説明してしまったが、維摩は説明できないものは黙ってしまったのである。維摩の一黙の深さと重みは計りしれない。(沈黙の教え「維摩経」鎌田茂雄 から)
 オーストリヤの哲学者ウイントゲンシュタイン(20世紀)は「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」と述べている、ことは極めて興味深い 。

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