明らかなことば:中論への月称の注釈

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中論は中観派の祖ナーガールジュナ(龍樹)の主著である。般若経の空の思想を詳細に展開している。般若経は大乗仏典の中でもっとも古く成立し、大乗仏教の根本思想を説いたものであるが、その成立にナーガールジュナがかかわっている可能性があると言われる。それは、ナーガールジュナが放浪の末大竜菩薩に出会い、その菩薩から般若経を授与されたという伝説が物語っている。

中論は「帰敬序」と題する序文及び27の章からなり、全部で500ばかりの詩頌でできている。「帰敬序」は「八不の偈」と呼ばれる次のような言葉からなっている
 滅することなく、生ずることなく、断ずることなく、永遠でなく、同一でなく、 
 別異でなく、くることなく、ゆくこともないような、
 縁起の意味―それは人間的な理論を超えたもの、めでたきものー
 を説いた仏陀、すなわち最高の説法者たる仏陀に敬礼する
前半の八つの否定(八不)が空のことを言い、それが縁起の意味であるとする。縁起とは相対的な関係のことを言う。こう言うことでナーガールジュナは、中論が縁起としての空の思想を説いたものだと宣言しているのである。

本文は韻文であり、かつきわめて簡潔なので、読み解くのがむつかしい。そこで注釈が必要となる。「廻諍論」については、ナーガールジュナ自ら注釈を付しているので、非常にわかりやすいのであるが、中論についてはナーガールジュナ自身の注釈はない。そこで後世の学者がさまざまな注釈を付した。その注釈には、大きくわけて二つの流派があった。一つは帰謬論証派、一つは自立論証派である。帰謬論証派は、単純化して言うと、論争相手の誤謬を指摘することで、自説の正当なことを主張するというスタイルをとり、自立論証派は、それとは反対に自説の正統性を積極的に主張するスタイルをとる。この二つのうちでは、帰謬論証派のほうが古い。というのも、ナーガールジュナの原典そのものが、インドの伝統哲学や小乗思想への反論という形をとっているからである。自立論証派は、そうしたやり方が消極的だとして、積極的に自説の正統性を主張すべきだという形で成立した。それに反論するかたちで、帰謬論証派のほうも論理を綿密化する方向に進んだという経緯がある。

中公版「世界の名著2大乗仏典」は、中論の注釈から二つの抄訳を収録している。一つは、帰謬論証派のチャンドラキールティ(月称)による注釈「明らかなことば」から第十五章(自性の考察)の翻訳。もう一つは、自立論証派のバーバヴィヴェーカ(清弁)による注釈「智慧のともしび」から第十八章(自我と対象の研究)の翻訳である(いずれも長尾雅人編訳)。

まず、「明らかなことば」から「自性の考察」について。これは、諸存在には自性がかならずある、とする主張(実在論と呼ばれる伝統的な立場)に対して反論を加え、諸存在には自性はない、空であると主張するものである。論争相手の主張を反駁することで自説の正統性を主張するという点で、帰謬論証派の典型的なスタイルを示すものである。

この論争の焦点は自性をどうとらえるかにある。反論者(論争相手)は、自性はそれを成り立たせる主要な因と副次的な縁があると認められるから、作られたものであると主張する。これに対してナーガールジュナは、自性とは変作される(つくりかえられる)ことのないもの、また他のものに相対的でないものであると言う。つまり作られたものではありえないわけである。そのようなものを自性とすると、そのようなものは存在しない、とナーガールジュナは言う。つまり自性とは非存在であり、したがって無自性ということになる。この辺の理屈の展開は多少アクロバット的なところがある。

ついで自性、他性、存在、非存在についてのこむつかしい議論がある。反論者は、他性が否定されていないことを根拠に自性はあると主張するのに対して、ナーガールジュナは自性がないのに他性があるわけがないと言う。他の存在にある自性が他性といわれるのだから、その自性がないところに他性があるわけはないというわけである。また、自性と他性の両者がないとしても存在はあるとする反論者に対してナーガールジュナは、自性と他性とを別にして、どうして存在があるだろうかと反駁する。これに対して反論者は、存在が否定されても非存在は否定されていないといい、非存在が否定されないとすれば、存在も否定されないと食い下がる。それについては、存在が成立しないならば、非存在も成立しない、なぜなら存在しないことが非存在なのだから、当の存在そのものが存在しなければ、非存在も存在しないといって、かなり無理な理屈をナーガールジュナは展開する。

その次は、自性と変化についての議論。自性とは定義からして変化しないものである。しかし世の中には変化しないものはない。そのことから帰結されることは、自性などというものはないということである。

以上から、自性も他性も、存在も非存在もないということになる。ところが諸存在はあるといい、またないといって妄想するものがある。存在はあるというものを常住論といい、存在はないというものを断滅論という。これらは極端論であって、正しいのはそのどちらの立場もとらないことである。すなわち中の立場に立つことである。「賢者は、あるということも、ないということも、自分の考え方の根拠とすべきではない」のである。ここで唯識派への批判がある。唯識派は、(意識の、したがって自我の)存在を認める点で、一つの極端に陥っているというのである。

以上がチャンドラキールティによる中論の注釈「明らかなことば」のうち、第15章「自性の考察」の内容である。







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