吉田孝「日本の誕生」

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吉田孝は、日本の古代史が専攻だそうだ。その吉田が、「歴史の中の天皇」においては、天皇制の歴史を東アジアの政治情勢との関連で論じた。同じ岩波新書に入っている「日本の誕生」は、それより十年ほど前に書いた本だが、ここでも日本の古代史を、東アジアとの関連においてとらえている。標準的な日本の古代史は、中国をはじめ東アジアとの関連を、当然考慮に入れることはあっても、それは付随的な位置づけで、日本という国を動かしてきた要因は、主に日本内部から生じて来たと考えた。吉田はそれに対して、東アジアからの影響こそが、日本の歴史を動かしてきた主な要因だったとらえるわけである。

まず、日本という国の名称にしてからが、中国を強く意識したものだったと言う。日本とは、日出づる処、という意味だが、それは中国から見てそう言えるわけであって、日本人にとっての日出づる処とは、はるか東の海上だという。その日本が我が国の国号になったわけだが、もともとは我が国の王朝を中国風に表現したものだった。中国にさまざまな王朝があり、漢とか唐という王朝があるのと同じように、我が列島を統治する王朝を日本と言ったわけだ。日本そのものは、もともと倭といった。これも中国的な表現である。日本人は、中国人が日本をさして倭といっていたのを、そのまま採用したのである。日本側で本来用いられていた国をあらわす言葉は「やまと」であった。やまとはもともと王権の所在地であった大和地方を指した言葉だったが、それが王権の支配地全体に適用されて、日本の国のあるところを「やまと」と呼ぶようになったのである。(ちなみに「やまと」は聖なる山の入り口という意味で、おそらく高天原とつながっているのだろう。その大和の背後にある地は「やましろ」といった)

だいたい、日本の国の礎を築いたのは弥生文化ということになっている。その弥生文化は、朝鮮半島からやってきた渡来人によってもたらされた。かれらは稲作と金属を日本にもたらし、今に至る日本文化の基礎を作り上げたのである。その弥生人が日本に移動してきた背景には、当時の東アジア情勢が大きく働いていた。秦から漢への交代期に、中国を中心とした東アジア一帯に、大規模な民族移動が生じていた。その民族移動の一環として、朝鮮半島から日本への移民の流れがあったということらしい。

吉田は、我が国の最初の王権は渡来人によるものだった可能性があると指摘している。というのも、中国の歴史書後漢書に出て来る倭国王帥升とは渡来人だった可能性がある。当時の日本には、渡来人以外姓をもったものはいないからだと言うのである。

我が国の王権のうち、「倭の五王」のことが中国の歴史書に記されている。彼らは皆倭を姓としている。これは中国側で、中国流につけた姓である可能性が高い。おそらく日本の天皇はもともと姓をもたなかったと思われる。日本側が、中国による柵封を拒否し、日本として自立する道をとるようになると、日本の天皇は姓を名乗らなくなる。それは今日まで続いている。日本人のなかで天皇家だけが、いまに至るも姓をもっていないのである。

日本の王権のうち、中国の歴史書にもっとも早く登場するのは卑弥呼である。卑弥呼は魏に朝貢し、魏から親魏倭王の称号を賜った。卑弥呼はまた、朝鮮半島に大きな関心を示し、積極的な外交を展開した。その最大の動機は、鉄の確保だったようである。古代の日本は鉄を算出せず、もっぱら朝鮮半島から得ていたのである。

こうした朝鮮半島へのかかわりは、白村江の闘いに負けて撤退するまで続いた。日本の古代史は、朝鮮半島の古代史と密接な関係をもっていたのである。白村江の闘いは、朝鮮半島への日本の影響力をほぼ無化したが、日本と深いつながりをもっていた勢力も崩壊した。百済は滅亡し、大量の難民が日本にやってきた。おそらくこれが、朝鮮半島から日本への大量移民の動きの最後のものだった。

天智天皇の死後、内戦を勝ち抜いて日本の王権を掌握した天武天皇は、日本の国制を整える作業に没頭した。その際によりどころとしたのが、中国の律令制であった。天武によって制定された飛鳥浄御原令は、日本史上最初の体系的な法典であるが、その内容は唐の律令を横引きした部分が多いという。その後、大宝律令の制定があり、律令制が統治の原則とされる。律令制とならんで、官位の制度も整えられ、中央集権的な国家体制が構築されていく。そういう意味で、天武天皇こそは、今日につながる日本政治のあり方を築いた天皇ということができる。

百済の滅亡後、日本は新羅と付きつ離れつの関係を続けたようだ。たびたび遣新羅使を送っている。また遣唐使も送っている。701年の遣唐使には、山上憶良も参加しているが、その際に日本側ははじめて公式に、自国を日本と表現した。それを受けた形だろう、山上憶良は次のような望郷の歌を詠んでいる。
  いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
この「日本」は「やまと」ではなく、「にほん」と読むべきだと吉田は言っている。

以上を通じて吉田は、古代の日本が東アジア世界と深いつながりを持っていたことを強調する。ところが近代の日本史学は、こうした東アジアとの日本のつながりを故意に軽視するところがあるという。その理由として、脱亜入欧思想が歴史の見方にも働いて居ることをあげる。その典型が和辻哲郎だ。和辻は、「古寺巡礼」のなかで、法隆寺の回廊の柱をギリシャ神殿の柱と深くかかわらせたが、このような根拠の乏しい歴史観は、脱亜入欧思想が反映した、イデオロギー的な見方だというのである。

ともあれ、古代の日本は、中国大陸や朝鮮半島など、東アジア諸国との深いかかわりのなかで国のあり方を作り上げてきた。奈良時代の終わりころまで、朝鮮半島との人的交流が続いていたし、文化の交流も続いていた。そうした関係が断ち切られるのは、平安時代になって遣唐使が廃止されてからである。それ以降日本は内向きになっていく。そうした内向き志向を反映して、独特の国制が形成されていったと吉田は見る。その国制を吉田は、「やまとの古典的国制」とよび、それが明治維新までの日本を大きく規定してきと考える。それが、維新以後は逆に抑圧されるようになった。そこには、さきほども触れた脱亜入欧思想が働いたと吉田は考えるのである。





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