寡黙な死骸 みだらな弔い:小川洋子を読む

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「寡黙な死骸 みだらな弔い」は、十一の小話からなる連作短編小説集である。それぞれの小話は何らかの形でつながっている。時間的な連続関係であったり、時空は異にしているが何らかの小道具が共通する形で出てきたり、あるいは同じパターンの人間的な触れ合いが反復されるといった具合である。タイトルにあるとおり、死が基調低音になっている。どの小話にも死の影を認めることが出来るのだ。つまり(死というもののかもし出す)同じ雰囲気を基調低音にして、さまざまなつながり方をした小話が、それぞれ互いに響きあうように展開していく。それを読むものは、あたかも幾つかのモチーフによる変奏曲を聴かされているような気持になる。小川洋子にはもともと音楽的な雰囲気を感じさせるところがあるが、この作品はそれが非常によく現われている。

その十一の小話のあらすじを、小道具を中心にして要約すると次のようになる。①「洋菓子屋の午後」は、死んだ息子を回想する話、息子は冷蔵庫のなかで冷たくなっていたのだった、②「果汁」は、少年がある少女に誘われて食事をする話、そこでキーウィが小道具として出てくる、③「老婆J」は、畑を栽培している老婆の話、キーウィのほかに人間の手に似た人参が出てくる、④「眠りの精」は、二年間だけ一緒に暮らした継母の話、その継母は小説を描いていたことになっている、⑤「白衣」は病院のスタッフの話、クリーニングにまわすために白衣のチェックをしている、そのスタッフはマンションの508号室に住んでいるのだ、⑥「心臓の仮縫い」は、心臓を包み込むための鞄を作る話、鞄が出来た頃合に不要になったといわれた女は、注文主の女の心臓を裁ちばさみで切り取ってしまうのだ、その心臓は体の外にはみだしていたのだった、⑦「拷問博物館へようこそ」は、拷問用具を展示する博物館の話、そこに紛れ込んだ女性が博物館の管理人から拷問道具の使い方について説明を受ける、その管理人は、痛みよりもっと残酷な苦しみについて語る、⑧「ギプスを売る人」は、拷問博物館の管理人の若い頃の話、かれはいろいろな仕事をしていたが、どれも詐欺めいたもので、ギプスもそうしたいかがわしい商品だった、⑨「ベンガル虎の臨終」は拷問博物館の管理人が面倒を見ていたベンガル虎が臨終を迎える話、⑩「トマトと満月」は、ある青年がホテルで出会った老婆にまつわる話、その老婆は大きな包みを大事そうに抱えていたが、その中には小説の原稿が入っているという、彼女は作家なのだ、その作品の一つに「洋菓子屋の午後」というものがあった、もっともそれは彼女の見得から出た虚言だったということがわかるのだが、⑪「毒草」は、昔子どもを失った女が、年老いて冷蔵庫の中で死ぬ話、彼女は冷蔵庫に中に自分の死体を見出し、その死体に向って祈りを捧げるのだ。

こういう次第で、①と⑪とが、スタートとゴールの関係にある。①で息子の死を悲しんだ女が、⑪で自分自身の死を悲しむのだ。この二つの合間に、さまざまな小話が語られるわけだが、それらは幾つかの小道具によって互いに何らかの形で結び合っている。②と③はキーウィーで結びつき、③と④は人間の手の形をした人参で結びつき、⑤と⑥は508という数字で結びつき、⑥と⑦は死んだハムスターで結びつき、⑦、⑧、⑨はある一人の人間を主人公にした物語、といった具合だ。

死を貴重低音にしているにかかわらず、話そのものには暗いところはあまり感じることはない。むしろ全編明るい雰囲気が漂っている。それは小川の文章が持つ本来的な明るさのせいだろうと思う。彼女の文章はどんな些細なことでも、洒落た仕掛けを感じさせる。その洒落たところが、明るさにつながるのである。たとえば、クリーニングの準備の為、白衣のポケットをからにする場面。色々なものが出てくるのだが、それはこんなふうに描写される。「私はまた一枚白衣を広げ、逆さまにして振った。何かが床に落ちて転がり、ワゴンの脚にぶつかった。プラムの実だった。干からびた睾丸に似ていた」

こういう場面で、干からびた睾丸を比喩として持ち出すところなどは、小川ならではの洒落た感覚といえる。小川は実際に干からびた睾丸を見たことがあるのだろう。でなければ、とっさにイメージとして湧いてこないと思う。小生についていえば、干からびた睾丸を、人間を含めてどんな動物のものでも見たことはないが、鶏の生の睾丸は見たことがある。台湾に旅行した際に、台北の有名な料理店で鶏の睾丸の刺身を注文したことがあった。こりこりとしてなかなか美味だったことを覚えている。

小川は、何気ない眺めでも技巧を尽くした描写をする。たとえば、拷問博物館の玄関を描写するところ。そこは吹き抜けになった広い場所で、ステンドグラスの窓から様々な色に染まった光が差し込んでおり、ミラーつきの傘立てや、背もたれの高い椅子二脚や、いかにも長い間音を出していないように見えるピアノが置かれており、「ピアノの後からのびる階段はゆるやかにカーブし、床に敷かれた絨毯は毛足が長く、踏み心地がよさそうだった。サイドテーブルには花の生けていない陶器の花瓶、椅子には髪を縦巻きにしたビスクドール、靴箱の上には白鳥のレースが飾ってあった。どれも高級品だった」

小説というものは、細部にこだわるところがあるが、こんなにも細部を大事にする作家はそう多くはいないのではないか。

⑩「トマトと満月」の中で、老婆がトマトをホテルへのお土産に贈る場面がある。老婆はそのトマトを自分の菜園でとれたと言うのだが、実は橋の上に転がっていたものを拾ってきたのだった。トマトを満載にしたトラックが橋の上で横倒しになり、積んでいたトマトが転がり出したのだった。その際の印象を老婆は次のように語る。「居眠り運転のトラックが横転して、荷物が全部散らばって、橋の上は一面トマト。見事な眺めだったわ。あの風景を目の当たりにしたら、誰だって拾わずにはいられないはずよ。運転手はぺちゃんこになった運転席にはさまれて即死よ。腰骨も肺も脳味噌も潰れてたの。ピューレにされたトマト見たいに」

小生も同じような眺めの現場を目撃したことがある。広い道路をドライブしていたら、縦長のボックス型トラックが猛スピードで追い越していったが、なにかの弾みで横転し、その際に運転手が運転台の窓からはじき出されたかと思うや、腰から下を外にはみ出した形で、トラックの下敷きになってしまった。おそらく上半身をグチャグチャにつぶされて、即死したに違いない。そのトラックから転がり落ちたものは、トマトを含めて他に何もなかったので、ただ運転手の潰れた死体が実に不気味に映ったものだった。

なににつけても、人間の死体を見るというのは気持のよいものではない。その気持のよくないことを小川は、さも当たり前の出来事のように淡々とした筆致で描くのである。






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