柄谷行人のアソシエーショニズム論:「世界史の構造」から

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「社会主義には大まかにいって二つのタイプがある。一つは、国家による社会主義であり、もう一つは、国家を拒否する社会主義(アソシエーショニズム)である。厳密には、後者のみが社会主義というべきである」。こういうことで柄谷は、エンゲルスが主導して確立した国家による社会主義を否定し、国家を拒否する社会主義を提唱する。そしてほかならぬマルクスを、そのそもそもの提唱者だと主張するのである。これは主流派のマルクス主義の社会主義解釈とは全く趣を異にした考えだ。国家を拒否する社会主義といえば、アナーキズムを連想させるが、そのアナーキズムの理論家の一人であるプルードンを柄谷は高く評価し、マルクスはフォイエルバッハを通じてプルードンの影響を強く受けたといっている。プルードンとマルクスとのかかわりについての柄谷の議論を読むと、かれがマルクスをプルードン化していることがよくわかる。

プルードンとマルクスの関係といえば、マルクスのプルードン批判の書「哲学の貧困」が想起される。この本のなかでマルクスはプルードンを徹底的に批判し、その幼稚な考えを嘲笑したので、プルードンを全く評価していなかったと受け取られがちである。しかしそうではないと柄谷は言う。柄谷は「哲学の貧困」におけるマルクスのプルードン批判には全く触れないで、マルクスがプルードンのアソシーショニズムを受け継いだと断定している。プルードンのアソシエーショニズムとは、国家によらない、自己統治による秩序を意味するというのだが、それは別名をアナルシーといい、「双務的=互酬的な契約にもとづく民主主義」のことだという。こういうことで柄谷は、かれのいう交換様式Aの高次の復活としてのコミュニズムのイメージを、アナーキズムやその類似概念としてのアソシエーショニズムと結びつけ、その主唱者であったプルードンをマルクスの先駆者として位置づけなおすわけである。

ところで、「哲学の貧困」におけるマルクスのプルードン批判は、素朴な労働価値説に向けられていた、プルードンは、人間労働がそのまま商品の価値を形成するのであり、その価値を資本が独占するのは、労働者から盗みを働いていることを意味するので、盗みをさせないようにせねばならぬと主張した。マルクスがそれを幼稚な考えだと批判したわけは、生産物の価値が実現するためには市場での交換に媒介されねばならず、その市場は資本主義的な生産関係にもとづいているのだから、そうした関係を見ずに、ただ単純な労働価値説を振りかざすのはナンセンスということだった。マルクスは、リカードの亜流による単純な労働価値説を批判するためにプルードンをダシに使ったのであって、プルードンに対して特別な意趣は抱いていなかったと思う。ところが柄谷は、マルクスとプルードンとの間に特別なつながりを見るのである。

そのつながりを媒介するのが「アソシエーショニズム」である。これは、国家とは全くかかわりのない自由な連合体のことをさす「アソシエーション」をもとにした概念である。アソシエーションはふつう「共同体」という意味にとらえられる。その共同体は、生産の場ではなく、消費の場で成立する。プルードンがイメージしていたのはある種の消費共同体であって、その共同体同士が、資本による搾取を許さずに、商品をその労働価値にもとづいて売買し、その収益を労働者に公正に分配すべきだというふうに考えられていた。このシステムが発展すると、コミュニズムとなるわけだが、そのコミュニズムは生産ではなく交換に根ざしている。そのように考えれば、プルードンのアソシエーショニズムとマルクスのコミュニズムは通底しあうものだといえる。柄谷はそういうことで、マルクスを、プルードンのアソシエーニズムを手掛かりにしてコミュニズムを構想した思想家として位置付けたいようである。したがってマルクスには、そもそもプルードンと同じようなアナーキズムの傾向が認められるというわけである。

こうした見方に強い反発があることは柄谷も十分気づいていて、マルクスの社会主義理論が国家を重視していることは認めている。しかしマルクスの社会主義革命論は、労働者による国家権力の奪取を目的としたものではない。あくまでもアソシエーションの普及拡大のための方便として国家権力を利用するにすぎない。なぜなら、アソシエーションは、資本によってつぶされやすいものであり、その基盤強化のためには国家権力による擁護が必要である。その国家権力の擁護によって、アソシエーションが社会全体の基礎的な単位となれば、そこからおのずからアソシエーショニズムとその発展形態としてのコミュニズムの実現がはかられるであろう。そう柄谷は考えるのである。

柄谷のそうした考えを受け入れるにしても、マルクスが労働者階級を社会主義革命の実現主体として考えていたこととの整合性が、別途問題となる。マルクスが労働者階級による社会主義革命という考えに生涯を通じて固執していたことは否定できない。労働者階級を社会主義革命の主体として期待しないようになるのは、20世紀以降にあらわれた議論の中であって、マルクス自身は、労働者階級による社会主義革命という考えに固執していた。それについて柄谷は、マルクスには生産関係だけではなく、交換様式にも十分な考慮を払っていたという事情を持ちだす。労働者は、生産の場では単なる賃金奴隷であるが、消費の場では消費者として立ち現れる。資本主義システムは、大衆による消費を不可欠の前提としているから、その消費がうまく働かないと、システム全体が成り立たない。そこに消費者としての労働者階級がつけこむすきがある。労働者階級が、消費者としての立場から交換過程に介入することによって、資本の横暴を抑え、ひいては資本主義システム全体をマヒさせることができる。こうしたイメージをマルクス自身抱いていたと柄谷はいうのだが、それは牽強付会の類の議論ではないか。マルクスが交換過程を重視していたことは事実であるが、それは生産関係を支えるための条件としてであって、交換過程そのものを、柄谷のように自立したプロセスと考えていたわけではない。

ともあれ柄谷は、生産関係を反映した労働組合よりも、交換様式を反映した共同組合のほうを重視する。柄谷は言う、「労働組合と共同組合はともに資本に対抗する運動であるが、質的に異なるものである。一口でいうと、労働組合は資本制経済の内部での資本との闘争であり、協同組合は資本制の外に超出する運動である」。こう言うことで柄谷は、労働組合運動は、高度に発達した資本主義システムにおいては、システムの内在的な要素として取り込まれるのに対して、共同組合運動は。資本主義システムそのものを破壊する可能性を秘めていると主張する。そうした柄谷の主張は、20世紀後半に盛んになったマルクス読み直しの風潮を代表するものといえよう。

なお、マルクスがとなえた世界同時革命論は、疑いをいれない前提として、柄谷も受け入れている。一国内での革命はかならずほかの国の介入をまねき破綻する運命にある。だから世界同時でなけらばならない。そうした世界同時革命の可能性は、21世紀にはいって現実性を増したようである。いまや資本主義システムのグローバルな展開ががすすむ一方、そのシステムのいきづまりが深刻化した。資本は様々な手を使ってシステムの生き残りを図ったきたが、そのシステムを支える条件が消滅しつつある。だから資本主義システムの崩壊は意外と近いかもしれず、その場合には世界同時に革命がおこる可能性が高い。





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