フロイトのマゾヒズム論

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フロイトはマゾヒズムをつねにサディズムと関連付けて説明した。当初は、攻撃的なリビドーというものを想定し、それが他者に向けられたものがサディズム、反転して自分自身に向けられたものがマゾヒズムだとした。この場合には、サディズムが本来的なものであって、マゾヒズムはそれから派生したという位置づけだった。

中期の代表的な論文「快感原則の彼岸」においては、人間の根源的な衝動を死の衝動と生の衝動にわけ、そのうち死の衝動のほうを本源的なものとみなすようになる。フロイトは、快感こそが生き物を動かす根本的な要因だとしたうえで、快感とは、恒常性がもたらすものと考えた。恒常性というのは、完全に安定した状態を意味し、いかなる変化も拒むものであるから、畢竟存在をやめることにつながる。だから快感原則は、死の衝動を生き物にとっての根源的な衝動としたのだった。この考えに従えば、マゾヒズムは死の衝動がストレートに自分自身に向けられたものであり、それが反転して他者に向けられたものがサディズムということになる。従来とは異なり、マゾヒズムを根源的、サディズムはそれから派生したものとしたのである。つまり従来の考えから百八十度転換したわけである。

1924年の論文「マゾヒズムにおけるエネルギー配分の問題」において、フロイトはもう一度転換をみせる。この論文でフロイトは、快感原則を死の衝動と結びつけるのをやめて、生の衝動と結びつけたうえで、生の衝動こそが、生き物にとって本源的な衝動だと、主張を変化させた。これは重大な軌道修正だと思うのだが、フロイトはあまり立ち入って説明していない。さらりとした感じで、生き物なのだから、死ぬことではなく、生きることこそが目的なのは当然だというような口ぶりを見せているだけである。

こうした軌道修正にともなって、マゾヒズムの議論も変化した。マゾヒズムはいまや、死の衝動が自分自身に向けられたものではなく、生の衝動の一つの現れだということになる。生の衝動がどのようにしてマゾヒズムと結びつくのか、この論文では詳しく論じられていない。フロイト得意のエディプスコンプレックスとか幼時期の性欲と深いかかわりがあることがほのめかされているだけである。それらは生の衝動の本体的要素である愛のリビドーの転化したものであるから、マゾヒズムも基本的には愛にかかわる問題だということになる。少なくとも、死の衝動とは強い結びつきはもたないとされる。

フロイトはマゾヒズムを、性愛的、女性的、道徳的の三つの形態に分類している。そのうち中核となるのは性愛的マゾヒズムである。女性的、道徳的マゾヒズムは、性愛的マゾヒズムの変形という位置づけである。そこで性愛的マゾヒズムとは何か、ということが問題となる。

性愛的マゾヒズムとは、苦痛を与えられることに性的な快感を覚えるという現象である。なぜ苦痛を与えられることに快感を覚えるのか。そこにはさまざまな要因が絡んでくる。それをこの論文は詳しく示していないので、確たることは言えないのだが、どうやら幼児期における両親との関係に深い原因が潜んでいるらしいことは伝わってくる。子供は両親に対して屈折した感情をもっているものだが、その両親から与えられる苦痛が、かれにとって快楽として感じられることが、性愛的マゾヒズムの基本的な要因となる、そうフロイトは考えているようである。この性愛的なマゾヒズムがサディズムに転化するのは、自分自身を外界に投影したことの結果であるとされる。

女性的マゾヒズムは、性愛的マゾヒズムの受動的な要素が、女性らしい行動と結びついたものだ。フロイトのいう女性的なマゾヒストは、「頼りない、依存した、一人では生きて行くことのできない子供、しかもとくにいけない子供として取り扱われることを欲して」いるが、それは「その当の人間を女性的な状況に置き据えること、すなわち去勢され、交接され、又は子供を生むことを意味している」(高橋義孝訳)のである。こういう説明に接すると、フロイトの女性観はあいかわらず偏見に毒されているように見える、と率直に思ってしまうところだ。

道徳的マゾヒズムは、自我の分裂に根拠を持つ。フロイトによれば、自我から超自我が分裂し、超自我が道徳的に命令するものとして、自我は命令されるものとして振る舞う。カントの提言命令は、超自我のそうした命令をなすものを理念化したものである。この分裂においては、命令される自我はマゾヒストとして振舞い、命令するほうはサディストとして振る舞う。どうもそんな構図になっているようである。いずれにせよ、この構図においては、個人の心はマゾヒストとサディストとに切り裂かれているわけである。もっともフロイトは、マゾヒストとサディストとは対立関係にではなく、「相互に補い合い、力をあわせて同一の諸結果を生み出す」と言っているのだが。

マゾヒズムの困ったところは、自分自身の破壊につながりやすいことだとフロイトは言う。その自己破壊は性愛的な満足をともなうので、余計に始末が悪い。人間は自己の本来的な傾向からマゾヒズムに陥りやすいので、それが死の衝動と結びついたりすると、取り返しのつかないことになりがちだと言いたいようなのである。

いずれにしても、フロイトのマゾヒズム論は、サディズム論と深く結びついている。一方は他方なしでは成り立たないような関係にある。要するにメダルの表裏のような関係にあるわけだ。こうしたフロイトのサド・マゾ論を正面から反駁したものにドルーズがいる。ドルーズは、サディズムとマゾヒズムはそれぞれ異なったメカニズムによって起るのであって、両者の間に共通の原因はないとした。だがそれぞれがどのようなメカニズムによって起るのかについては、かならずしも納得ある説明をしているとは言えない。今のところは、フロイトのようにサドとマゾを関連付けて説明するほうが説得力があるようである。





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