皆殺しの天使:ルイス・ブニュエルの不条理映画

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ルイス・ブニュエルの1962年の映画「皆殺しの天使(El ángel exterminador)」は、ブニュエル得意の不条理劇映画。長らくメキシコを本拠にリアリスティックな映画を作っていたブニュエルが、スペインに戻って作った作品だ。「アンダルシアの犬」や「黄金時代ん」など初期のシュル・レアルな作風とは趣を異にし、晩年フランスで手掛けた一連の不条理映画につながるものがある。ブニュエルにとって、重要な転機を画す作品といえよう。

パーティ会場の屋敷に封じこめられた人々の焦りを描いたものだ。この人々がなぜ、屋敷に閉じ込められたのか、それは屋敷の主人をはじめ誰もわからない。別の人間によって画策されたわけではない。ただなんとなく進んでそういう境遇に陥ってしまったのだ。いわば神の摂理によって、かれらは自己監禁したというふうに伝わってくるのである。

要するにこの人々は、不条理極まる状況にとらえられてしまったのである。そういう点では、カフカの小説の主人公に似ている。カフカの小説の主人公は、わけもわからぬまま、不条理きわまる状況にとらわれてしまう。主人公自身はまったく常軌を逸しておらず、常識的な行動をとれるのだが、状況の不条理さが、その行動をも不条理なものにしてしまう。それと同じように、この映画の中の人々も、みな正常な思考能力をもち、合理的な行動をとれるのだが、状況の不条理さがかれらの行動を無意味なものにする。そうした状況にあっては、かれらは主体的に行動しているつもりでも、客観的には無意味なことをしているにすぎない。そういった怖さを、この映画は感じさせる。

一ダースほどの男女がある屋敷に集まってパーティを催す。かれらは一晩中パーティ会場にとどまり、誰も帰ろうとはしない。そのうち朝がきて、事態の異常さに気付く。自分たちが屋敷の中に監禁状態になっていることに気づくのだ。誰かの力で強制的に監禁されたわけではない。ただ外に出ていこうという意欲を奪われているのだ。物理的な監禁というより、精神的な監禁を被っているらしいのである。その前兆のような出来事はあった。屋敷内にいた大勢の使用人たちが、一人を残してみな逃げ去ってしまったのだ。惨事の予感能力をもつある種の動物のように。

監禁状態は数日間に及び、その間にかれらは飢餓に苦しみ、また、もともと軟弱だった人は体調をくずし、中には死ぬものも出てくる。いまなら、基礎疾患を持ったものがパニック状態に弱いといわれるところだろう。

そのうち、事態の異常さに気付いた外部の人たちが、警察を含めて大勢押し寄せてくる。だが、警察にしても、中に立ち入って調べようとはしない。係累の子供たちも連れられてくるが、かれらも屋敷のなかへ入ろうとしない。

そんなわけで絶望にかられた内部の人々は、互いに攻撃しあったりする。精神衰弱状態に陥って正常な判断ができなくなってしまったのだ。だが一人冷静な人がいて、事態をよくよく分析する。その結果たどりついた結論は、自分たちは或る時点から、異常な道に迷い込んでしまったのではないかというものだった。だからその時点に立ち返り、そこから別の道に向かえば、今の状況から脱することができるのではないか。

この考えは正しかった。かれらは、ある女性がピアノを弾いていた場面を思い出し、その場面にもう一度自分たちが戻る努力をする。じっさい以前と同じことが繰り返される。その延長でかれらは、いつのまにか別の場面を生きていることに気づくのだ。

かくして屋敷から脱出できたかれらは、感謝の念を込めて、町の教会のミサに参加する。ところがそのミサが終わって外に出ようとしても、出られないのだ。人々は、いつの間にか協会の内部に閉じ込められてしまったのである。

こんな具合に、なかり人を食った話である。スペイン人は人に食われるのが好きと見えて、この映画は大評判になった。






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