代表制:柄谷行人「トランスクリティーク」

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国民の代表者による政治を、代議制民主主義という。あるいは単に代表制と呼ぶこともある。その代表制について柄谷は、かなり批判的である。代表制というもは、代表するものと代表されるものとの間に、ある種の一致を前提としているが、そんなものは実際にはない。代表するものは、なにも代表されるものに行動や意見を拘束されているわけではなく、自分自身の考えにもとづいて行動する。その行動が、自分を選んだもの、つまり代表されるものの利害に反することもある。というより、それが普通である。

代表するものと代表されるものの不一致を劇的な形であらわしたものが、ルイ・ボナパルトだと柄谷は、マルクスに従っていう。マルクスは「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」のなかで、代表するものと代表されるものとの関係について詳細な分析を加えた。それを単純化して言うと、ブルジョワ、プチブルジョワ、プロレタリアートそれぞれを代表すると称する政党があり、その政党がそれぞれ自分の支持基盤のために行動すると期待されていたが、じっさいにはかれらは勝手な行動をしたのであり、一方、かれらによって代表されるはずであった諸階級もまた、かれらに忠実だったわけではない。どの階級も、本来自分を代表すると思われている政党ではなく、ルイ・ボナパルトを支持した。ルイ・ボナパルトは、自分自身の支持基盤をもたなかったが、それにもかかわらず、あるいはそうだからこそ、あらゆる階層の支持を集めて勝利することができた。

ここから言えることは、代表制は国民の意思を忠実に反映するものではないということである。もっと正確に言えば、階級の一員としての国民の利害を忠実に反映したものではないということだ。国民には、選挙において代表者を選ぶことができるだけであって、その代表者の選挙後の行動まで拘束できるわけではない。ルソーは、人民に自由があるのは選挙で代表者を選ぶ時だけで、その後は単なる奴隷に成り下がると言ったが、その意味は、まさに、代表するものと代表されるものの不一致ということである。

国家権力は、基本的には、代表者たちによって行使される。その権力は、立法、行政、司法に分かれ、そこから三権分立のシステムが構築される。それを立憲民主主義という。権力の具体的な行使は執行権が担当し、それは官僚制によって担われる。国家の政治的な決定は、ほとんどが官僚たちによって決定される。議会はそれをオーソライズするだけであり、また、その議会の成員を選挙で選ぶ国民は、遠くから官僚の決定に同意する役割を果たすだけである。それゆえ、「人びとが自由なのは、たんに政治的選挙において『代表するもの』を選ぶことだけである。そして実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに『公共的合意』を与えるための手の込んだ儀式でしかない」と柄谷は言うのである。

こうした立憲民主主義のシステムを柄谷は、「ブルジョワ独裁」という。この言葉は、マルクスの使った「プロレタリア独裁」を踏まえて柄谷自身が創作したものだ。ブルジョワ独裁とは、「ブルジョワ階級が議会を通して支配するということではない。それは『階級』や『支配』の中にある個人を、『自由な』諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが『ブルジョワ独裁』なのだ」。つまりブルジョワ独裁とは、階級関係を見えなくすることで、ブルジョワの利害が国民全体の利害だと見えさせるための巧妙な装置だというわけである。それが成り立つのは、代表するものと代表されるものが必ずしも一対一で対応しないという現実があるからである。

このブルジョワ独裁に柄谷が対置するのは、柄谷なりに定義した「プロレタリア独裁」である。ブルジョワ独裁が、政治システムとして三権分立をとるのに対して、柄谷がイメージするプロレタリア独裁は、とりあえずパリ・コンミューンの経験を参考にしている。「パリ・コンミューンは立法機関であると同時に行政機関であった」と柄谷は確認するのだが、しかしプロレタリア独裁においても、モンテスキューのいう三権分立とは違ったかたちで、三権は存在し続けるという。それは立法部門、行政部門、司法部分を持つ。言い換えれば代表制と官僚制を持つ。官僚制は、ウェーバーの言うとおり、分業の発展した社会においては不可欠の制度である。問題は、それが独走することのないようにコントロールすることだ。その方法として柄谷は、くじ引きをあげている。くじ引きによる偶然性を活用することで、権力の固定化と暴走を事前に防ごうというわけである。

柄谷は言う、「匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョワ独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして中心はあると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば『超越論的統覚X』(カント)である」

カント用語は別として、政治にくじ引きを導入するというアイデアは、いかにも柄谷らしい。アテネのくじ引き制度は、すべての市民を対象にして行われていたが、柄谷の場合には、公職の候補者を選挙で複数選び、その中からくじ引きで決めるという二段階制をとっている。いずれにしても、選挙にくじ引き制を導入するというのは、ブルジョワ独裁の形式である議会制民主主義の発想からは出てこない。

ともあれ、代表するものと代表されるものとの不一致という事態は、議会制民主主義の根幹にかかわる問題を露呈する。議会制民主主義は、国民各層の意見がそれぞれの代表者によって体現され、それらの間で意見の調整がなされることを通して、大多数の意見が採用される一方、少数派の意見も尊重されるという擬勢の上に成り立っていた。それが、そもそも代表するものが代表されるものとの間で何らの一致もないとなると、何のために議会での議論が行われるのか、まったくわからなくなる。議会は、国民の代表というたてまえにしばられず、自分の勝手な考えにもとづいて、勝手なことをする、というようなことになる。じっさい、ナチスやファッショは、特定の階級の利害ではなく、全国民の利害を代表しているという擬勢のもとで、好き勝手なことをやったわけである。そうした事態をルイ・ボナパルトは先取りしていた。ルイ・ボナパルトの登場は、今日でも勢いのあるポピュリズムの先駆的な形態である。ナチスやファッショはその模倣に過ぎない。それらが普通選挙によって登場したということには、歴史的な意味がある。普通選挙こそは、匿名投票と絡んで、個人を階級から切り離し、抽象的な個人という擬勢の枠に閉じ込める制度である。その普通選挙が、日本の熱狂的な軍国主義を支えたという事実にも注目する必要がある、と柄谷は語っている。





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