十地経を読むその十:第九いつどこにいても正しい知恵のある菩薩の地

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菩薩の十地の第九の地は、「いつでもどこでも正しい知恵のある菩薩の地」と呼ばれる。その地にある菩薩は、あらゆる世界のあらゆる存在について、その如相を知るとともに、その知恵をもとにして衆生を教えみちびく。第八の地を経て不退転の境地にいたった菩薩は、いまやその完璧なる知をもって、存在の如相を体得しながら、衆生の救済へと乗り出すのである。衆生の救済とは、衆生をしてさとりを得せしめることである。これゆえ、この第九の位についての教えは、前段であらゆる世界のあらゆる存在の如相がいかなるものかについて説き、後段で、その知恵を生かしながら衆生をみちびく方便について説く。

まず、存在の如相について。この場合、存在とは、第八地で説かれていたように、菩薩が現に生きている現世における存在のみならず、三千大千世界とよばれる、無量無数の世界すべてにおける存在をいう。それも過去・未来・現在にわたる、存在の生成すべてを含む。人間の考えが及ばないような、広大無辺の存在の世界全体を、この地にある菩薩は把握するのである。この世界全体について、菩薩は一瞬にして把握する。単に空間的に無限の世界のみならず、時間においても過去から未来にわたるすべての時間を一瞬にして把握するのである。このような知を持つということは、一神教の立場からは、神にしか出来ないことである。菩薩は神ではないにかかわらず、それと同等の能力を持つのである。

存在の如相についての知がいかなるものか、具体的にはつぎのように説かれる。

「どのように生成流転する諸存在が生成するか、どのように生成流転する諸存在が生成するか、ということを、あるがままに如実にさとる」。しかして生成流転する諸存在は心の生んだものだとする。三界唯心の思想を繰り返してるわけである。その心は、深い密林(稠林」の如くであり、限りなく多様であり、「一瞬のうちに生起し、滅亡し、連続する」。心をこのように捉える見方は、「刹那滅」と呼ばれる。心のはたらきを絶え間なく連続する時間の流れと見るのではなく、瞬間ごとに生成しては滅亡し、また新たに生成する断続的な過程と見るのである。

煩悩は、心の生みだしたものである。その煩悩は、はるかに遠く最高の禅定にいたるまで存続する。それを滅する諸修行は無限であり、つねに心と同時に生じていて別在しない。それ自身の本性にしたがって消滅するが、消滅してしまっても、その消滅したものが潜勢態となって積み重ねられ、壊滅せずに存続して果報を生ずる。

ここで煩悩の潜勢態といわれるものは、それらを含んだ心であるにすぎず、実態があるわけではない。空間に位置を占めるわけでもなく、それらを含んだ心と離れて別在するわけでもない。こう言いながらも、煩悩のもとである心は存在し続ける。そういう意味合いでの心のあり方を、唯識派では「阿頼耶識」といった。

以上、第九の地にある菩薩の地は、世界全体について存在の如相についての知を得るのである。世界全体が、この地にある菩薩によって、トータルに把握されるのである。

次に、このような完璧な知にもとづいて、菩薩が衆生を導くための条件が説かれる。その条件とは、四種の無礙自在な説法力をはたらかすことである。四種の無礙自在な説法力とは次のごときものである。
(1)法を知る無礙自在な説法力(法無礙知)
(2)法の意味を知る無礙自在な説法力(義無礙知)
(3)言語の語義解釈を知る無礙自在な説法力(辞無礙知)
(4)弁舌さわやかに説法する無礙自在な説法力(楽税無礙知)
これら説法力をもって、あらゆる衆生の道心のままに、機根のままに、信心のままに、そのままにさまざまなしかたで、つまり方便をもちいて、法の説法をなしていくのである。

この菩薩の能力は無限であるから、菩薩は無限の数の衆生を相手に、同時に説法することができる。「いまもし、三千大千世界のうちにいるあらゆる衆生が、かの菩薩の前にすすみ出て、一瞬のきわめて短い時間のあいだに問いを問い、ひとりひとりが無量無辺に種々なる音声で問い、だれひとりとして同じ問いを問うものがいないとしても、かの菩薩は、あらゆる衆生の音声と語句と文章を理解する・・・ほんの一瞬のきわめて短い時間のあいだにすべてを理解して、ただの一言を言うことによって、かれらすべてをわからせる」

この地にある菩薩は、大梵天となり、大いなる威力をもって三千世界を支配する王者となる。あらゆるものを征服して、いかなるものにも征服されない。あらゆるものの恵みになることを観照し、自由自在なるはたらきを体得している。

要するに、この地にある菩薩はすでに全知全能なのである。そのことを頌はつぎのようにうたっている。

「無量無辺の仏国土のうちに存在する原子の微粒子ほど、それほど限りない三昧を、ただの一瞬のうちに体得するのである、知あるひとびとは。そして、十方において諸仏を眼のあたりに見て、法を聴聞する。もし、それにもまして誓願を奮いおこすのであれば、不思議なるはたらきは無量無辺である」





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