墓の見える道:瀬戸内晴美の短編小説

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瀬戸内晴美は、45歳の時に書いた「黄金の鋲」を最後に露骨な私小説を書かなくなった。だが、私小説的な感性を思わせるものはしばらく書いていた。47歳の時に書いた「墓の見える道」は、一応私小説とは異なった創作ということになっているが、語り口には私小説的な雰囲気が濃厚だし、また、テーマになった事柄も、瀬戸内自身の体験が幾分かは盛られているようである。そうした意味では、これは、私小説と純粋な創作との中間的な作品といえるのではないか。

この小説のテーマは、夫に逃げられた妻の無念さを描くことである。瀬戸内自身は、夫を捨てた体験はあるが、夫から捨てられたことはない。彼女が捨てられたのは、曰く付きの因縁を共有していた年下の恋人にである。その恋人に対する恨みつらみが、瀬戸内を私小説に向かって駆り立てたといえる。この「夏の見える道」という小説は、恋人に捨てられた体験を、夫に捨てられた女の気持を通じて再現したと言えなくもないが、一応私小説ではなく、ふつうの創作小説の体裁を繕っている。そう繕うことで瀬戸内は、男女関係についての彼女なりのこだわりを表現したかったのではないか。

この小説の主人公である中年女は、夫に捨てられたことにいつまでもこだわり、ねちねちと愚痴をこぼし続けるばかりなのだが、その愚痴の感情には、欲求不満も含まれていて、彼女が煩悶するのは、なかばはその欲求不満のためなのだ、というふうに伝わってくる。じっさい、主人公の女は、京都の町をあてどもなくさまよった挙句、いきずりに知り合った男と恋のアドベンチャーを始めようとするのである。アドベンチャーそのものには踏み込んでいないが、彼女がそれに惹かれる気持ちは十分に説明されている。

この小説は、以前の小説に比べれば、説明的な口調がよわまり、その分、文章も自然な流れを感じさせる。自分自身のことを書くときには、勢い防御的な姿勢を取らざるを得ず、その防御駅な姿勢が説明調の文体をとらせるのだと思う。この小説は一応架空のことを書いていることになっているので、作者には余計な配慮をする必要がない。その自由な気分が、文体をのびのびとさせるのであろう。

架空のこととはいえ、瀬戸内自身の実体験の影が見られないでもない。この小説の中の中年女は、欲求不満が嵩じるあまりに、男が欲しくなったというふうに描かれているが、じっさいの瀬戸内も、この頃小説家の同輩で奇人として知られた井上光晴と恋愛関係にあった。恋愛関係というのが大袈裟に聞こえるのであれば、男女の関係にあったと言い換えてよい。いずれにせよ瀬戸内は、この小説を書いたころにも、男女関係には欠けていなかったのである。

瀬戸内が私小説を通じて表現してきたのは、男女関係のしがらみだったわけだが、一応私小説から脱却した後でも、あいかわらず男女関係を種にした小説を書き続けたということなのであろう。

小説の構成はよく考え抜かれている。ある中年女が、気晴らしのために京都の町を歩いている間、次々と心をよぎる過去の思い出やら感情やらを反芻しているうちに、ふとうどんを食いにたちよった屋台風の店で一人の男と出会い、その男に下半身が反応してしまうというような内容だ。こういうと、この中年女は、男を見れば誰彼構わず発情する尻軽女のように映るが、じっさいそのとおりなのかもしれない。瀬戸内自身、自分の尻癖の悪さを自覚していて、その照れくささというような感情をこの小説の中で吐露している可能性はある。

「墓の見える道」というタイトルは、京都建仁寺の墓地を意識したものだ。この小説の中の主人公の中年女は、四条大橋でしばらくたちずさんだあと、橋を渡って、南座の横を右に曲がり、建仁寺の方向へ歩いていくのだ。その途中、建仁寺の土塀を繰りぬいてできた空間を屋台として使っている店に立ちいり、そこできつねうどんを食っているところ、男を見て発情するのである。そういう描写を読むと、食と性とはしっかり結びついていると感じさせられる。





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