トッド・フィリップス「ジョーカー」:英雄になった殺人鬼

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トッド・フィリップスの2019年の映画「ジョーカー(Joker)」は、人気漫画バットマンのキャラクターであるジョーカーがどのようにして生まれたかをモチーフにした作品と捉えられているようだが、小生のようにバットマンを知らない人間にとっては、アメリカの格差社会のひどい現実を描写したもののように受け取れる。

とにかく暗い映画である。その上暴力的な場面が多く、見るものによって暴力礼賛的なメッセージが伝わってくる。これを作ったトッド・フィリップスとしては、映画の内容が暴力的なのは、現実のアメリカ社会が暴力に満ちていることを反映しているだけだということになるのかもしれない。

冴えないコメディアンが主人公である。かれはなかなか日の目を見ず、町の悪がきどもにはこけにされ、仕事も首になってしまう。要領が悪いのだ。それは、彼が発達生涯で、自分の行動を社会に適応させることができないことからくる。かれは何とか適応しようともするが、結局適応できないで、社会からはみ出してしまう。殺人を重ねたあげく刑務所にぶち込まれてしまうのだ。

殺人を三回も犯す。一度目は地下鉄でふざけていた三人組を射殺したこと、二度目は自分に拳銃をくれたかつての仲間をナイフで刺殺したこと、三度目は、人気テレビ番組に出演中、トークショーの司会者を射殺したことである。この三度目の犠牲者フランクリンは、トランプを思わせるような風貌で、仕草もトランプを想起させるが、トランプとは違って、分別臭いところがある。その分別臭さにジョーカーが怒って射殺するというわけである。とんでもない話ではあるが。(このほか、病院のベッドで寝ている自分の母親を枕をかぶせて窒息死させるシーンもある)

奇妙なのは、映画の中のジョーカーが、アメリカの格差社会を告発する英雄として描かれていることだ。ジョーカーが金持ちの権化と思われる三人組を殺したのは、正義の行いだという考えが広まり、ジョーカーは貧者の英雄と称えられ、その貧者たちを暴動に向って駆り立てるというふうに展開していく。そうした筋の展開にはかなりの無理を感じさせる。これでは、アメリカの反格差デモは、合理的な理由をもたないテロだと決め付けられてしまうだろう。トッド・フィリップスの意図が何だったのか、うかがい知れることではないが、誤解を招きやすい映画ではある。

舞台は、ゴーサムという架空の町になっているが、映されているのはニューヨークらしい。ジョーカーが上り下りする坂道の階段は、ブルックリンの町の一角だという。





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