メルロ=ポンティの身体論:「知覚の現象学」を読む

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西洋近代哲学史の上で、身体の問題を主題化したのはメルロ=ポンティである。デカルトが身体を延長の一つとして分類して以降、西洋哲学における身体は、物質界に属することになり、あくまでも客観的な対象にとどまってきた。身体は、そのものとしては意識の対象なのであって、したがって意識とは別物であった。ところが人間自体は意識として考えられたから、その意識とは別物である身体は、人間性の範疇には入ってこないのだった。サルトルがいうように、人間とは意識と完全に重なりあうのであり、その意識が世界を基礎づけ。その世界、つまり対象的な世界のうちに身体も含まれるのである。身体がなにか人間とかかわりあうことがあるとしたら、それは人間が意識と身体との二つの実体からなっているといったもので、その結びつきは外的なものにとどまった。こうした伝統的な身体観をメルロ=ポンティは徹底的に批判し、身体を人間性そのものにとっての本質的な要素と考えたのである。人間は意識のほかに身体を所有するというのではなく、身体こそが人間そのものなのだという、ある種当たり前のことを、メルロ=ポンティは宣言したのである。

身体についての考察をメルロ=ポンティは、対象としての身体の分析から始める。身体は私の意識にとってとりあえず対象としての性格を持つ。その点では、デカルトのいうとおり、延長としての物質と異なるところはない。しかし身体という物質は、ほかの物質とは違った性質をもっている。たとえば、私がなにか机のようなものを触るとして、私はその机を一方的に触っているといった感じをもつ。触っている私と、触れれている机とは全く次元を異ににする存在だ。ところが、私が自分の右手で自分の左手を触るとする。すると、右手は触る私としてあらわれ、左手は触られるわたしとしてあらわれ、したがって両者は次元を異にした存在としてあるはずなのに、実際には、触る私と触られる私とは不可分のものとして感じられる。それは身体の両義性によるものだとメルロ=ポンティはいい、身体はほかの物質のような単に対象的な存在はなく、対象的でもあれば、内的感覚でもあるような両義的なものなのだと考えるのである。

このような身体の両義性を手がかりにして、メルロ=ポンティは、身体の主体的な性格の分析へと移っていく。私の対象へのかかわり方は、私が自分の右手で自分の左手をつかむことを典型として、自分の身体で対象をつかみとるという形をとる。つかむというのは触覚に属することだが、そのほかの行為、視覚とか聴覚とか味覚といったものも同じ構造である。私は自分の身体の一部であるさまざまな感覚器官を使って対象をとらえるのだ。その場合の身体は、単に客観的な対象界に属するものではない。そうではなくて、私が対象に触れるときにその媒介役を果たすものであり、したがって、わたしは身体として対象とかかわっているわけである。メルロ=ポンティの言い方を引用すれば、「この実物の身体は、諸物の間にまざってそこにあるというようなものではなく、むしろ私の側に、一切の現象の手前にあるものなのである・・・私の身体とは一般に対象を存在するようにさせている当のものなのだ」(竹内、小木訳)。

こういうと、対象は意識が構成するというサルトルの言葉を、意識を身体で置き換えただけだと思われるかもしれない。たしかにそういうところはあって、メルロ=ポンティの身体論は、サルトルの意識を身体で肉付けしたものだという性格も色濃くもっている。その点ではサルトルの唯心論を、身体を付属させた意識の独我論に転化させたと言ってもよい。そういう理由はおいおい明らかにしていきたいが、身体を軸にして展開するメルロ=ポンティの思想も、人間の主体性を基軸にして考える点では、サルトルと基本的に異なるところはないのである。

ともあれ、メルロ=ポンティは、サルトルのように人間を意識と重なり合うものとしたうえで、その意識がそれ自身透明なものとして世界を構成するというような考え方はとらない。意識はすでに身体によって不透明なものになっている。意識は抽象的で透明なものとして、いわばゼロから対象を構成するといったものではなく、すでに身体に住まわれたものとして、身体を通じて対象とかかわりあう。人間が世界のうちに自己を感じるのは、身体を通じてなのだ。身体はだから、人間そのものだといってよい。

この、「身体を通じて」対象とかかわりあうということから、「身体図式」とい概念が意味をもつ。人間が身体を通じて対象とかかわりあうとき、それは、いわば無手勝流の、その場限りのものではなく、一定の恒常的なスタイルをもっている。そのスタイルのことをメルロ=ポンティは「身体図式」というのである。この身体図式が、「身体の空間的・時間的統一性、相互感覚的統一性、あるいは感覚=運動的統一性」の根拠を与える。この身体図式を通じて人間は、世界において存在することが可能になる。身体図式というのは、「私の身体が世界内存在である(世界に属する)ことを表現するための一つの仕方」なのである。

とはいえ、身体は世界に対して一方的な従属関係にあるわけではない。空間に即していうと、私が空間の一断片として存在しているわけではなく、「逆にもし私が身体を持たなければ、私にとって空間なぞ存在せぬことになろう」。つまり空間を含めた対象的世界は、私の存在の相関者なのであり、私の存在を抜きにしては意味をもたない。世界あっての私の存在は世界内存在と呼ぶことができるが、その世界の存在は私の存在を前提として始めて意味をもつ。空間にかぎらず、時間もまた私の存在の相関者なのである。おしなべて世界とは、私を抜きにしては語れないのだ。

以上から帰結するところは、メルロ=ポンティの身体論的存在論は、身体を包みこんだ意識を世界の構成原理とする、ある種の独我論であって、それは独我論であるという点では、サルトルの唯心論とそう異なったものではない。いってみれば、身体という味付けを施した唯心論というべきか。それでも、西洋の近代哲学に与えたインパクトは並なものではなかった。以後西洋の哲学は、身体を抜きにして自我を語ることが許されなくなったのである。もっともだからといって、メルロ=ポンティが西洋哲学の地平を根本的に拡大したとまではいえない。メルロ=ポンティは、身体を取り上げたのはいいが、その身体は意識に伴われたものであって、あくまでも意識そのものが自我の主人公であることにかわりはない。ところが西洋の哲学はいまや、無意識を考慮に入れなければ成り立たなくなってきている。メルロ=ポンティはその無意識を最後まで認めなかった。その点では、サルトル同様古いタイプの思想家だったと言えるのである。





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