加藤周一の谷崎潤一郎論:日本文学史序説

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加藤周一は谷崎潤一郎を永井荷風と比較しながら論じている。この二人は個人的にも仲が良く、似ているところもあった。日本の伝統文化に対する嗜好、そして女性を愛することである。だが二人の女性の愛し方には微妙な違いがあり、また、二人が好んだ日本の伝統文化もそれぞれ違ったものだった。荷風は、谷崎の言い分を借りていえば、「女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風があった」が、谷崎自身は「女を自分より上のものとして見る。自分のほうから女を仰ぎ見る。それに値する女でなければ女とは思はない」と言うのである。これは女に対する態度の対照的なものとはいえるが、しかし女をひたすら愛する点では、相違はないともいえる。その二人の姿勢を川端康成と比較すれば、いっそうあきらかである。川端には女をいつくしむ姿勢が見られないのに対して、この二人は、多少ベクトルの角度の違いはあっても、同じ方向を向いていたのである。

日本の伝統文化についてえば、荷風は文人趣味を、谷崎は浄瑠璃作者の流れを受けると加藤は言う。荷風は自分の父が文人趣味をもっていたこともあり、また、母型の祖父鷲津毅堂が大沼沈山につながる高名な文人だったこともあり、文人趣味を身に着けていた。「江戸芸術論」や「下谷挿話」はそうした彼自身の文人趣味をいかんなく発揮したものである。それに対して谷崎のほうは、浄瑠璃を通して、それ以前の民衆芸能や果ては源氏物語の世界にまでつながっていた。彼は「源氏物語」の現代語訳をすませたうえで、「細雪」を書いたのである。

谷崎と荷風の間には根本的な相違もあると加藤は言う。それは西洋文化との関わり方である。荷風が若いころに西洋体験をすませ、とくにフランス文学を通じて西洋的な感覚を身に着けていたのに対して、谷崎には西洋体験がなかった。そのことが、二人の社会を見る目を異ならせた。荷風は日本社会を相対化する視点を持ち、日本の軍国主義を嫌悪する姿勢をとったのに対して、谷崎にはそういう社会的な視線はない。それは谷崎自身も認めていることで、自分には西洋体験ができるほどの家産がないといい、「反骨や社会批判の精神」がないと認めていた(「雪後庵夜話」)。

「細雪」を除く谷崎の小説は、抽象的である、と加藤は言う。「彼の小説は、男女の身体的かつ心理的な性生活を、その他の社会関係から切り離して、集中的に語る」からだというのである。谷崎の男女の性生活へのこだわりは徹底していて、「周囲の社会から隔離された~いわば密室の内部の~男女の性生活を、きわめて広く、おそらく日本の小説家の誰よりも包括的に、多くの異なる状況の中での多くの異なる面について、描き出した」。それについては、「男の嗜虐、被虐的傾向は、ほとんどすべての谷崎の小説に一貫し、さまざまな状況の中に現れている。女の身体の部分、殊に若い女の足に対する男の強い執着も、繰返し強調される」。

谷崎の小説には、キリスト教的な精神と肉体の対立もなく、仏教的な現世否定もない。そこにあるのは、「現世の、殊に肉体的なものなるものを通じての今此処における自己実現の、積極的な肯定である」。加藤はこう言うことで、谷崎を、日本の土着思想を見事に体現した作家とみるわけである。

そんな谷崎の作品として、「細雪」は例外的である。これは唯一リアリズム的な小説であるとともに、自分の周りの日常を、懐古的に詳細に描いたという点で、彼自身の「失われた時を求めて」になっていると加藤は言う。叙述のスタイルは、他の小説とは異なっているが、しかし細部にこだわり、話しがとめどなく拡散していくところは、日本の文学の伝統とつながっている。そこが「細雪」を日本の文学の伝統の中に生まれた金字塔的な作品と評価できる所以だと加藤は言う。

「この小説が日本の小説史上の里程標でありえたのは、それが伝統に反したからではなく、伝統の中に含まれていた可能性を見事に実現したからである。現世的なるもの、今此処での感覚的世界、その感覚の洗練、日常生活の細部にあらわれる様式、移り行く季節のそれぞれの『今』における優美さと、建築的全体の構造にかかわりなく磨きあげられた『部分』の微妙さ、~『古今集』以来の日本の美学の一つの要約であったという意味で、たしかに『細雪』は、歴史的記念碑である。

加藤はこう言いつつ、「細雪」が軍部によって発禁処分されたのは、これが軍国主義批判の書ではなく、軍国主義不在の書だったからだと評している。谷崎の筆はあらゆる方面にわたるようで、決して「政府・陸軍・戦争・歴史的状況というところまではゆかない」。谷崎にとって戦争とは、どうでも良いことではなかっただろうが、自分の小説のなかで取り上げる価値はなかったのである。そこは荷風と違うところだ。荷風は常に戦争を意識し、独伊の負けが決まったときには、「ヒトラア・ムソリーニの二怪がほろんだ」と喜ぶことができた。






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