心身学道:正法眼蔵を読む

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「正法眼蔵」第四「心身学道」の巻は、文字どり心身を以て真理を追究することについて説いたものである。道元はすでに、「心身脱落」について語っていた。心身脱落とは、心身を自我ととらえたうえで、その自我を脱落することがすなわち悟りだと説いていた。その自我には、対象の在り方も含まれるから、要するに相対的な現象の世界を超越することが心身脱落であり、さとりであると説いていたわけである。ところがこの「心身学道」の巻は、心身をもって悟りを得ることが説かれている。ということは、道元は「心身脱落」の前言を取り消して、「心身学道」を説いたのであろうか。まずそこが、大きな問題となる。

この巻は次のような言葉で始まっている。「仏道は、不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり」。不道とは仏道から外れるという意味であり、不学とは仏道を学ばないという意味である。だからこの文全体の意味は、仏道というものは、そこから外れようとしても外れることができないものだが、にもかかわらず、仏道を学ばなければ仏道から遠ざかってしまうということである。そこまでは、すんなりと納得できる。ところが、すぐあとにつづけて、「仏道を学習するに、しばらくふたつあり。いはゆる心をもて学し、身をもて学するなり」という言葉が来ると、首をかしげてしまう。これは、仏道を学ぶには、心を以てするのと、身を以てするのと二つの方法があるといっているのだが、しかしてそれが心身学道の意味であり、したがって心身脱落という道元のそもそもの出発点と異なっているのではないかとの疑惑を生むからである。

そこで、心を以て学し、身を以て学すということで道元が、何を意味しているかが問題となる。まず、心を以て学す、ということの意味について。これについて道元は次のように言っている。「心をもて学するとは、あらゆる諸心をもて学するなり。その諸心といふは、質多心、汗栗駄心、矣栗駄心等なり。又、感応道交して、菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依し、発菩提心の行李を習学するなり。たとひいまだ真実の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし仏祖の法をならふべし。これ発菩提心なり、赤心片々なり、古仏心なり、平常心なり、三界一心なり」。

質多心以下の諸心とは、要するに此岸といわれるような現実世界全体ということであろう。その現実世界に我々は生きているわけだが、その現実の世界におりながら、仏の世界と「感応道交」することができる。「感応道交」とは、仏と衆生とが通じ合うという意味である。そのためには「菩提心」を起こす必要がある。これを「発菩提心」という。悟りの境地に向けて心を準備するということである。仏道はすべてこの発菩提心から始まるのであるが、それは衆生が衆生のままに、仏の境地つまり悟りを目指すということである。衆生が衆生のままに菩提心を起こすというのは、身を以てさとりを目指すと言い換えることができる。仏道は一気に成就できるものではなく、一定の修行を要する。その修行は、人間であるわれわれ個々の心を以て行われるというのが、心身学道の、心を以て学す、ということの意味だろうと思う。「赤心片々」という言葉は、そのことをさしていると考えられるのである。真実の心が個々の人に宿っているということを、この言葉は語っている。

次に、身を以て学す、ということについて。これについては、次のように言われている。「身学道といふは、身にて学道するなり。赤肉団の学道なり」。赤肉団とは、肉の塊としての人間のことをいう。その生身の人間が仏道を学ぶというのである。これは、人間を身としてとらえたうえでのことで、先に人間を心としてとらえたものと、対比をなし、その双方を合わせて全体としての人間をイメージしているわけであろう。要するに、言っていることの内容は、心を以て学す、と異なるところはない。ただひとつ、身はとりあえず亡びるものでるから、その「身」について語るときには、生死の問題を避けることができない。というわけで、「身」についての議論は、生死論を中心にして展開していく。

生死についての理解のポイントは、次のように言われている。「いはゆる生死は凡夫の流転なりといへども、大聖の所脱なり」。生死はわれわれ凡夫の避けられない運命であるが、聖人はそれを超脱している、という意味である。さとりの境地に達すれば、生死はすでに問題とはならない。そういう境地においては、「生は死を罣礙するにあらず、死は生を罣礙するにあらず」ということになるが、しかし、それは凡夫にはうかがい知れないところである。「生死ともに凡夫のしるところにあらず」なのである。凡夫には生死の本当の意味が分からない、ということだろう。

以上の議論を通じて浮かび上がってくることは、「心身学道」は「心身脱落」のために必要な準備行為だということである。心身脱落とは、さとりの境地に至った事態をさしているが、その悟りを得るためには、ぼやっとしていてはならない。修行をしなければならない。そのことはすでに「仏性」の巻の中で言われていたことである。そのことをこの「心身学道」の巻では、より詳細に説いたと言うことができるのではないか。「心身学道」は、修行の段階での心構えであり、「心身脱落」のほうは、修行の成果としてのさとりの境地の在り方ということになる。

ここまで来て、「心身脱落」と「心身学道」との間の関係が分かったような気になれるわけである。






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