グローバルサウスの戦略的意義

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最近「グローバルサウス」という言葉が注目を浴びている。それにはウクライナ戦争の影が指摘できる。ウクライナ戦争が大きなきっかけとなって、G7諸国と中ロの対立が前景化し、その対立にグローバルサウスを巻き込もうとする動きが、とくにG7側から強まった。主な標的になっているのはインドである。G7諸国は、今年のG7サミットにインドのモディ首相を招き、インドをG7側に抱き込もうとはかった。それに対してインドは、対立する双方の間にたって、自国の利益のために利口に振舞っている。そんな光景が見られる。そんなグローバル・サウスの戦略的意義とでもいうべきものに言及した小論が、雑誌「世界」の最新号にのっている。「グローバルサウスと人間の安全保障」(峯陽一)と題する一文だ。

この小論は、グローバルサウスという言葉自体は2010年代にある程度定着するようになったが、本格的に使われるようになるのはつい最近のことだという。その背景には、国際社会におけるG7の重みの低下とBRICSはじめ発展途上国の台頭という事態がある。その発展途国は、かつての第三世界や非同盟諸国とは違った意味合いをもっているので、そうした新しい事情を反映した言葉としてグローバルサウスという言葉が使われることになったというわけだ。そのグローバルサウスに対して、いまのところG7諸国は、自分に都合のいい使い方をしようとしているが、それでは真に安定した関係は築けない。グローバルサウスの大部分の国は、かつてG7諸国の植民地支配に苦しんだ歴史をもっている。だからG7諸国にたいしては懐疑的である。その懐疑をふりはらわないかぎり、安定した関係を築くのは無理だとこの小論は主張する。

G7諸国のグローバルサウスへの本音の対し方を象徴するものとして、この小論は、エリザベス女王の葬儀に際してのイギリス側の対応を揚げている。イギリス側は、欧米諸国の首脳を丁寧に遇する一方で、アフリカ諸国の首脳は、頭数をそろえてバスで移動させた。そんなことを平気でやるようでは、G7諸国がグローバルサウスの信頼を得ることはできないだろう、というのでる。

「インド外交の論理」(溜和敏)と題した一文は、グローバルサウスの代表を自負するインドの姿勢について論じている。インドは中国との関係が悪く、その中国を含んだ形でのグローバスサウスの連携は考えていない。中国を牽制するためにはアメリカと結び、従来のよしみでロシアとも仲良くする。そういうかなり功利主義的な態度をとっている。G7としては、そんなインドを自陣営に引き込みたいのだが、インドはそんなG7を手玉にとって、漁夫の利を得ている。そんな構図がとりあえず指摘できる。じっさいインドは、NATOの枠組へのインドの取り込みをはかる動きには同調していない。あくまで自主性を維持しながら、功利的に振舞うという姿勢がみられる。つまり、国際社会は多様化しており、その多用化を象徴するものとしてグローバルサウスがあげられるということのようだ。





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