ドストエフスキー「二重人格」を読む

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「二重人格(Двойник<分身>とも訳される)」は、ドストエフスキーにとって二作目の小説である。処女作「貧しき人びと」刊行後わずか二か月後に、雑誌「祖国雑記」に発表した。ドストエフスキー自身はこの小説に大きな自信をもっており、「貧しき人びと」の十倍ほどの価値があるといっているが、世間の受けは芳しくなかった。批評家の評価も低かった。題材の異常さが、この小説を受け入れがたくさせたのだと思う。たしかに、今日の読者にもわかりやすいものではない。そのわかりにくさは、小説の主人公の人格があまりにも浮世ばなれしており、人間的な共感をさそうものではないところに根差しているように思える。

テーマは、タイトルにあるとおり、ある種の精神障害である。この小説が描いている精神障害は、二重人格という言葉が示しているように、自分自身の幻影に悩まされるという症状である。ドイツ語ではドッペルゲンガーと言われ、自分自身の幻影あるいは幻像が、自分の意志とは関係のない行動をし、そのことで自分をおびやかしていると受け取る症状である。いまの精神医学では「分離性同一性障害」と呼ばれ、離人症に近似した症状に分類されている。離人症に共通するのは、自我が自分自身をよそよそしく感じるという症状であり、それが高じると、自我が分裂し、自分のほかにもう一人の自分が見えるようになる。だが、分裂症(統合失調症)とは区別され、別の精神障害として分類されている。

小説の主人公は、ゴリャートキンというペテルブルグの役所に勤める下級官吏である。「貧しき人びと」の主人公の一人ジェーヴシキンも下級官吏であったが、そのジェーヴシキンが貧しい人間として描かれているのに対して、ゴリャートキンは貧しい人間としては描かれていない。かれには家僕もいるし、貯金もいくらかある。要するにまあまあの生活を送っている。「貧しき人びと」が、ロシア人の中にある貧困を表立ったテーマの一つにしているのに対して、この小説にはそうした問題意識はなく、したがってゴリャートキンをわざわざ貧しく描く必要はなかったわけである。その代わりにゴリャートキンには別の特徴が設定されている。頭がいかれている、という属性である。

ゴリャートキンが頭がいかれている、つまり狂人だということは、小説の冒頭からほのめかされている。この小説のテーマである分身の幻像が登場する以前に、ゴリャートキンはすでに頭のいかれた人物として描かれている。かれは身分の高い上官の屋敷に、招かれてもいないのに押しかけて、開催されているパーティに闖入してひと騒ぎ起こした後、力づくで追い出されているのである。そのことについてゴリャートキンが深刻に反省する様子はない。そんなゴリャートキンの前に突然、自分自身の分身があらわれるのである。

その分身の描かれ方があまりにも常軌を逸しているので、読者は頭が混乱し、自分もゴリャートキンの狂気に巻き込まれているのではないかと思い込むほどである。分身のゴリャートキンは、ゴリャートキン自身の心の中にいるだけではなく、現実世界に厳と存在して、ゴリャートキンの職場の人間とか、家僕をはじめとして周囲の人間との間に、現実のやりとりをしているのである。われわれ読者はそれを読んで、これはおそらく、同じ一つの現実が、ゴリャートキンの目で見たのと、ほかの人々の目で見られたのとは、違って見えるのだろうと推測する誘惑を覚えるほどだ。他の人々が見たり接したりしている相手を、ゴリャートキンは自分なりに勝手に受け取っているのではないかと思ったりするのである。

そう思わせるのが、ドストエフスキーの意図だったのかもしれない。並の小説なら、最高のレベルに語り手がいて、その語り手が小説全体の進行役をつとめるような具合になっている。この小説の場合には、ゴリャートキンの目に映った世界と、ほかの人々の目に映っている世界とのずれは、語り手が調整すればよいことになる。ゴリャートキンはそう思っているが、実はそうではなく、かれの幻想にすぎないのだという具合にである。そうした小説の語り方をめぐる問題については、別途考察を加えてみたいと思う。

この小説のミソは、ゴリャートキン自身に幻想の自覚がないことである。かれは自分を狂人だとは思っていないから、自分の分身を幻影などとは思わず、実際に生きているほかの人物だと思い込んでいる。たしかにその男は、自分と同姓同名であるばかりか、姿形は生き写しのように似ており、生まれ育ちも同じである。にもかかわらず、ゴリャートキンはその男の実在性に疑いをさしはさまない。気に入らないが、自分とは別の人間だと思っている。このようにそれと自覚のない幻影症状を描くのがこの小説の眼目である。これはだから、今の言葉でいえば「分離性同一性障害」の一症例ということになろう。

ドストエフスキーがなぜ、このような精神障害を小説のテーマに選び、その出来栄えについて大きな自信をもったのか。それについては様々な見方がある。日本のドストエフスキー研究者中村健之助は、ドストエフスキーは癲癇を患う以前から精神障害の症状に苦しんでおり、その体験を自分の小説にも取り入れた。「二重人格」はその最初の本格的な試みだったといっている。たしかにそう思うだけの理由はあるようだ。もしもその通りだとすれば、ドストエフスキーは癲癇だけではなく、統合失調症に似た症状にも悩んでいたということになる。






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